こわれた私を拾ってくれたのは優しすぎる彼でした

契約結婚の書類にサインをしたのは、雨が止んだ翌日の午後だった。

役所の小さな会議室。楓は淡々と必要書類を揃え、明莉は震える手で名前を書いた。

――佐伯明莉

その文字を見つめながら、胸の奥がざわついた。結婚という言葉は、まだ自分には重すぎる。でも、これは“守るための契約”。

恋でも、愛でもない。そう言い聞かせるように、深く息を吸った。

楓は書類を丁寧にまとめ、静かに言った。

「これで……あなたは守られます。でも、この結婚は——」

「秘密、ですよね」

明莉が言うと、楓は頷いた。

「はい。あなたが芸能活動を続ける以上、公表すればあなたを傷つけるだけです」

その言葉に、胸が少しだけ軽くなった。

――誰にも知られない結婚。

それは寂しいようで、でも今の自分には救いでもあった。

役所を出ると、空は晴れていた。雨上がりの光が街を照らし、濡れたアスファルトがきらきらと輝いている。

「帰りましょう」

楓の声はいつも通り静かで、でもどこか優しさが滲んでいた。明莉は頷き、楓の隣を歩いた。

――これから、私はこの人と暮らすんだ。

その事実が、まだ現実として受け止められない。

楓の家に戻ると、玄関には新しいスリッパが置かれていた。

「あなたのです。サイズ、合っているといいんですが……
 実は、日用品や洋服も必要だと思って用意しました。あなたの部屋に置いてあります」

明莉は思わず目を瞬いた。

「……買ってきてくれたんですか」

「はい。あなたがここで過ごすなら、必要だと思って」

その言葉に、胸がじんと熱くなる。

リビングには、明莉のために用意された小さな棚。洗面所には新しいタオル。クローゼットには、洋服がハンガーにかけてある。

「女優さんのお洋服を買うのは本当に緊張しましたが……
 あなたがイメージキャラクターになっているブランドを中心に用意しました」

その言葉に、明莉の胸の奥が静かに震えた。“守るための契約”のはずなのに、楓の行動はどれも、あまりにも優しくて、あまりにも丁寧で——

涙がこぼれそうになる。