こわれた私を拾ってくれたのは優しすぎる彼でした

あの日、世界は音を失った。病室の窓から差し込む白い光は、やけに冷たく見えた。ベッドに横たわる佑輔は、私の手を握ったまま、弱々しく笑った。

「……明莉。俺、パパになるんだな。嬉しいよ」

その言葉が、最後になった。

医師の静かな宣告が響いた瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。涙は出なかった。ただ、世界が遠ざかっていくようだった。音も、色も、温度も、すべてが薄れていく。“喪失”という言葉では足りなかった。心のどこかが、確かに壊れた。

数日後、私は流産した。身体の痛みよりも、心の奥にぽっかりと空いた穴のほうが、ずっと深くて、暗かった。未来を失うということが、こんなにも静かで、こんなにも残酷だなんて知らなかった。

退院の日。私は傘もささずに雨の中を歩いていた。どこへ向かうつもりだったのか、自分でもわからない。ただ、立ち止まったら崩れてしまいそうで、歩くしかなかった。雨は冷たくて、世界は灰色で、胸の奥は空っぽだった。

「佐伯明莉さん……?」

振り返ると、雨に濡れたスーツ姿の男性が立っていた。

重森楓。

そのときの私は、彼が誰なのか思い出す余裕すらなかった。顔も名前も、記憶のどこかに霞んでいた。

「大丈夫じゃないですよね。……来てください」

差し出された手は、驚くほど温かかった。その温度に触れた瞬間、張りつめていたものが切れ、私はその場に崩れ落ちた。

楓は何も言わず、私を抱きかかえた。雨音だけが、世界を満たしていた。その音は、悲しみを洗い流すようでもあり、これから始まる物語の幕開けのようでもあった。