デロスに着くまで、何処にも寄港する予定のない大海の北斗七星号は、猛スピードでパレマキリア沖を進んでいた。見渡す限り海の中で、目的地にどうやってたどり着くのだろうと、今更ながらにアイリーンは考えながら時を過ごしていた。
夜になれば道しるべの星が見えるとカルヴァドスは話してくれたが、昼間に目印となる星は見えない。それは、アイリーンにとってまるで自分の人生のようだった。
少なくとも、パレマキリアが突然侵攻してくるまでは、アイリーンにはしっかりとした目的があった。
体調不良の父王の代わりに政を行い、毎月届く兄からの手紙を楽しみにし、兄のウィリアムが戻ってくるまで何としても国を支え、何の憂いもなく帰国した兄を奇跡のごとく謎の病から回復したと発表して重心だけでなく民を安心させ、折を見てアルフレッドとローズマリーのことを父と兄に報告し、愛し合う二人を幸せにしてあげたいので婚約を解消したいと、二人を全力でサポートするのが目標だった。
アイリーンを国外に嫁がせたくない父王が婚約解消に難色を示したら、兄のウィリアムにとりなしてもらい、王女であるアイリーンが嫁ぐのにふさわしい相手を探してもらい、適当な相手に降嫁しずっと国で父王と兄のウィリアムの幸せを見守りながら暮らす。情熱的な恋も出逢いもない人生ではあるけれど、誰にも迷惑をかけず、家族が離れ離れになることなくつつましく暮らせる日々、アイゼンハイムとラフカディオと共に暮らす、それがアイリーンの夢であり、人生設計だった。
目標は、情熱的な愛情を抱いてくれる結婚相手ではなく、国のためになる結婚。あの頃のアイリーンには、自分が情熱的な恋をするなど考えもつかなかったし、そういう相手に出逢うことがあるとも考えたことはなかった。
デロスのような小さな国では、王女は政略結婚を父王に押し付けられるのが普通だと理解していたから、幼いころからアイリーンの教育をした教師たちは口々に姫の役目は政略結婚を受け入れ、嫁いだ相手との間に幸せを見つけることで、常に民と国のことを考え、自分の幸せを前面に出して考えてはいけないと、そう教えられていた。だから、アイリーンは父が国外にアイリーンを嫁がせたくないと言ってくれた時、家族と離れ離れにならずにすむ自分はとても幸せだと思った。
幼馴染のアルフレッドと婚約し、気心の知れたアルフレッドにいずれは嫁ぐものだと思っていた。だから、こっそりと夜中に部屋を抜け出し、ラフカディオと王宮の庭園で月を見上げていた時、夜間の巡回でアルフレッドが庭園の奥に姿を現し、そこへローズマリーが示し合わせたようにやってきたのを見たアイリーンは、何も考えずに二人に声をかけようとした。しかし、そんなアイリーンのドレスを珍しくラフカディオが咥えて止めた。
ラフカディオは元々アルフレッドが好きではないので、それが理由だと思っていたアイリーンの目の前で、アルフレッドはローズマリーを抱きしめ口付けした。何度も、何度も、最初は触れ合うだけの口付けから始まり、やがて二人はこの世界に二人だけしかいないとでもいうように深く長い口付けを交わしはじめた。
驚きはしたが、アイリーンは怒りも嫉妬も感じなかった。そして、ラフカディオがアイリーンを止めた理由が、二人が逢引きをするのを邪魔するなという意味だとアイリーンは理解した。
婚約者であるアルフレッドが、姉妹のようなローズマリーを愛している。アイリーンは二人の幸せを願いこそすれ、邪魔するつもりなどまったくなかった。その時、アイリーンは自分がアルフレッドを兄のようにしか思っていなかったことを改めて認識した。
早く二人を幸せにしてあげたいと思うアイリーンにとって、兄のウィリアムが帰国するまで、二人が自分に気を使い、ずっと忍んで逢瀬を交わさなくてはいけないことを申し訳ないとさえ思った。
しかし、すべてはパレマキリアが侵攻してきたことによって変わってしまった。アイリーンは生涯を姫巫女として過ごしてもいいとすら思っていたのに、アイリーンの未来はダリウス王子によって強制的に捻じ曲げられ、幼いころから恐ろしいと感じ、その執拗なまでのしつこさに辟易していた相手、国境をまたいで耳に入る噂は一国の王子とも思えない残虐な話ばかりだった。
ダリウス王子に嫁ぐのでなければ、誰でも構わないとすら思っていたのに、アイリーンはずっと教え込まれていたように、民と国を優先する決断を迫られ、王女としてそれを受け入れた。それでも、愛も恋も知らなかったから、嫌悪は感じても仕方のないことと諦められた。
それなのに、アイリーンは恋をして、愛し愛されることを知ってしまった。
今のアイリーンの前に広がる世界は暗く、星も月もない夜のようだった。生きている意味も目的もなく、花弁が風に弄ばれるように、執拗なまでにアイリーンに執着する狂気を宿したような瞳でアイリーンを見つめ、蛇が頭から獲物を丸呑みするように、アイリーンのことを丸呑みしようとしている相手に嫁ぎ、ご機嫌をとり、少しでもデロスに対する風当たりが弱くなるように、父王や兄王子の命が危険に晒されないようにと尽くさなくてはいけない人生がこれからずっと続くのだと思うと、いっそ婚儀の前に死んでしまいたいとすら思った。
アイリーンがそんなことを考えているとは露知らず、ノックして入ってきたコパルは、笑顔で甲斐甲斐しくアイリーンの世話をしてくれた。
「お嬢様、先ほど聞いたのですが、もう半分ほどは過ぎたとのことでございます」
「えっ、もう?」
あまりの早さに、アイリーンも驚きの声を上げた。
早く兄を国に連れ帰らなくてはならないと思う反面、もう逃げ場はなく、自分は父も兄も悲しませるような結婚をすることになるのだと思うと、申し訳なさでいっぱいになった。
「はい。何でも、海の女神の祝福を受け、良い風が続いているそうです」
コパルの言葉に、アイリーンは自分の願いが女神に通じているのだと、ホッと息をついた。海が荒れ、予定が遅れたり、兄が怪我をしたりするようなことになっては困ると、自分の帰りたくないという思いにふたをして、アイリーンは毎日航海の安全と、一日も早くデロスに帰れるようにと海の女神に祈り続けていた。
夜になれば道しるべの星が見えるとカルヴァドスは話してくれたが、昼間に目印となる星は見えない。それは、アイリーンにとってまるで自分の人生のようだった。
少なくとも、パレマキリアが突然侵攻してくるまでは、アイリーンにはしっかりとした目的があった。
体調不良の父王の代わりに政を行い、毎月届く兄からの手紙を楽しみにし、兄のウィリアムが戻ってくるまで何としても国を支え、何の憂いもなく帰国した兄を奇跡のごとく謎の病から回復したと発表して重心だけでなく民を安心させ、折を見てアルフレッドとローズマリーのことを父と兄に報告し、愛し合う二人を幸せにしてあげたいので婚約を解消したいと、二人を全力でサポートするのが目標だった。
アイリーンを国外に嫁がせたくない父王が婚約解消に難色を示したら、兄のウィリアムにとりなしてもらい、王女であるアイリーンが嫁ぐのにふさわしい相手を探してもらい、適当な相手に降嫁しずっと国で父王と兄のウィリアムの幸せを見守りながら暮らす。情熱的な恋も出逢いもない人生ではあるけれど、誰にも迷惑をかけず、家族が離れ離れになることなくつつましく暮らせる日々、アイゼンハイムとラフカディオと共に暮らす、それがアイリーンの夢であり、人生設計だった。
目標は、情熱的な愛情を抱いてくれる結婚相手ではなく、国のためになる結婚。あの頃のアイリーンには、自分が情熱的な恋をするなど考えもつかなかったし、そういう相手に出逢うことがあるとも考えたことはなかった。
デロスのような小さな国では、王女は政略結婚を父王に押し付けられるのが普通だと理解していたから、幼いころからアイリーンの教育をした教師たちは口々に姫の役目は政略結婚を受け入れ、嫁いだ相手との間に幸せを見つけることで、常に民と国のことを考え、自分の幸せを前面に出して考えてはいけないと、そう教えられていた。だから、アイリーンは父が国外にアイリーンを嫁がせたくないと言ってくれた時、家族と離れ離れにならずにすむ自分はとても幸せだと思った。
幼馴染のアルフレッドと婚約し、気心の知れたアルフレッドにいずれは嫁ぐものだと思っていた。だから、こっそりと夜中に部屋を抜け出し、ラフカディオと王宮の庭園で月を見上げていた時、夜間の巡回でアルフレッドが庭園の奥に姿を現し、そこへローズマリーが示し合わせたようにやってきたのを見たアイリーンは、何も考えずに二人に声をかけようとした。しかし、そんなアイリーンのドレスを珍しくラフカディオが咥えて止めた。
ラフカディオは元々アルフレッドが好きではないので、それが理由だと思っていたアイリーンの目の前で、アルフレッドはローズマリーを抱きしめ口付けした。何度も、何度も、最初は触れ合うだけの口付けから始まり、やがて二人はこの世界に二人だけしかいないとでもいうように深く長い口付けを交わしはじめた。
驚きはしたが、アイリーンは怒りも嫉妬も感じなかった。そして、ラフカディオがアイリーンを止めた理由が、二人が逢引きをするのを邪魔するなという意味だとアイリーンは理解した。
婚約者であるアルフレッドが、姉妹のようなローズマリーを愛している。アイリーンは二人の幸せを願いこそすれ、邪魔するつもりなどまったくなかった。その時、アイリーンは自分がアルフレッドを兄のようにしか思っていなかったことを改めて認識した。
早く二人を幸せにしてあげたいと思うアイリーンにとって、兄のウィリアムが帰国するまで、二人が自分に気を使い、ずっと忍んで逢瀬を交わさなくてはいけないことを申し訳ないとさえ思った。
しかし、すべてはパレマキリアが侵攻してきたことによって変わってしまった。アイリーンは生涯を姫巫女として過ごしてもいいとすら思っていたのに、アイリーンの未来はダリウス王子によって強制的に捻じ曲げられ、幼いころから恐ろしいと感じ、その執拗なまでのしつこさに辟易していた相手、国境をまたいで耳に入る噂は一国の王子とも思えない残虐な話ばかりだった。
ダリウス王子に嫁ぐのでなければ、誰でも構わないとすら思っていたのに、アイリーンはずっと教え込まれていたように、民と国を優先する決断を迫られ、王女としてそれを受け入れた。それでも、愛も恋も知らなかったから、嫌悪は感じても仕方のないことと諦められた。
それなのに、アイリーンは恋をして、愛し愛されることを知ってしまった。
今のアイリーンの前に広がる世界は暗く、星も月もない夜のようだった。生きている意味も目的もなく、花弁が風に弄ばれるように、執拗なまでにアイリーンに執着する狂気を宿したような瞳でアイリーンを見つめ、蛇が頭から獲物を丸呑みするように、アイリーンのことを丸呑みしようとしている相手に嫁ぎ、ご機嫌をとり、少しでもデロスに対する風当たりが弱くなるように、父王や兄王子の命が危険に晒されないようにと尽くさなくてはいけない人生がこれからずっと続くのだと思うと、いっそ婚儀の前に死んでしまいたいとすら思った。
アイリーンがそんなことを考えているとは露知らず、ノックして入ってきたコパルは、笑顔で甲斐甲斐しくアイリーンの世話をしてくれた。
「お嬢様、先ほど聞いたのですが、もう半分ほどは過ぎたとのことでございます」
「えっ、もう?」
あまりの早さに、アイリーンも驚きの声を上げた。
早く兄を国に連れ帰らなくてはならないと思う反面、もう逃げ場はなく、自分は父も兄も悲しませるような結婚をすることになるのだと思うと、申し訳なさでいっぱいになった。
「はい。何でも、海の女神の祝福を受け、良い風が続いているそうです」
コパルの言葉に、アイリーンは自分の願いが女神に通じているのだと、ホッと息をついた。海が荒れ、予定が遅れたり、兄が怪我をしたりするようなことになっては困ると、自分の帰りたくないという思いにふたをして、アイリーンは毎日航海の安全と、一日も早くデロスに帰れるようにと海の女神に祈り続けていた。


