お転婆姫は命がけ。兄を訪ねて三千里!

 カトリーヌが部屋に戻ると、ウィリアムが驚いたようにカトリーヌを見つめた。
「忘れ物かい?」
 問いかけるウィリアムに、カトリーヌは笑顔で籠の中からキッシュとパンを取り出した。
「ちょっとね、助けてもらったの。同じ、やっかいな奴から逃げてる男の子に」
 カトリーヌは言いながら、キッシュをお皿に載せ、パンは袋に入れたままウィリアムに手渡した。
「すぐ、温かいコーヒーを入れるわね」
 笑顔で言うカトリーヌに、ウィリアムは考え深げにキッシュとパンを見つめた。
 キッシュは大通りにある店のもので、ウィリアムのお気に入りだったし、袋に入ったパンは裏通りの店のものだった。どちらもウィリアムの好物で、それを知っているのはコパルだけだ。
「助けてもらったって、どういうこと?」
 ウィリアムが問うと、カトリーヌはコーヒーを手にウィリアムのところまで歩いてきた。
 素敵な女性に助けられて、どこかの貴族のページボーイに取り上げられたらしいんだけど、ジョージに因縁をつけてきたあのパレマキリアの軍人と奴隷時代に、何かあったらしくて、うろつく男から隠れてるために店で買い物をしたけれど、食べる予定がないからって、銅貨六枚で譲ってくれたの。
「これを銅貨六枚で?」
 ウィリアムが驚いたようにいうと、カトリーヌが不思議そうな顔をした。
「中通りの店なら、それくらいの値段でしょう?」
「ああ、中通りの店なら。でも、これは大通りの店のキッシュに、裏通りのクロワッサンだよ」
 ウィリアムの言葉にカトリーヌが目をむいた。
「嘘! それなら、銅貨九枚、ううん、十枚は要るわ。どうしよう、明日も頼んじゃったけれど、差額を請求されるかしら?」
 カトリーヌは青ざめて言った。
「さすがに、それはないと思うけど。その子は名を名乗らなかったの?」
「えっとね、コパンとか、コボルとか、そんな名前だった思ったわ」
 名前を覚えるのが苦手なカトリーヌは必死に思い出しながら呟いた。

 音楽院でカトリーヌに友人が出来なかった最大の原因は、この名前を覚えるのが苦手なことだった。家の名前にプライドを持っている貴族の娘たちは名前を間違えられる事を嫌がり、バカにされていると悪意を持って受け取った。
 それはカトリーヌの技術が高く、もって生まれた才能と音楽院の教授達が評したのも彼女たちのプライドを大きく傷つけた。人の名前すら覚えられない娘が、ほぼすべての曲の楽譜を暗記できるなんて、わざと名前を間違えて貴族を馬鹿にしていると、カトリーヌは誤解されていた。
 男性陣は、当然のことながら長男達は殆ど音楽院には居なかったが、次男三男達は見た目の良いカトリーヌに好意は持っていたが、平民であるカトリーヌと変な噂が立つことで将来の見合いや縁談に影響してはいけないと、もっぱら良家の子女のご機嫌取りに徹していた。だから、カトリーヌには音楽院に友達はなく、唯一、ウィリアムだけがカトリーヌとも分け隔てなくつきあうことから、二人が恋仲だなどという他愛もない噂が立ったりもしたが、ウィリアムは、ただ純粋に才能あるカトリーヌを酒場や、ましてや妾館に埋もれさせてしまうことが嫌だった。そう、あの事件のある日までは。