ストロベリーブロンドの髪をリボンで結ぶと、アイリーンは光輝く海を見つめた。
 国のほぼ中央にある高台に建つ女神の神殿からは美しいデロスの海が一望できる。左側の外海は濃く深い藍色をして輝き、右側の砂浜をたたえる湾のプルシャンブルーに透き通る遠浅の海が輝いていた。
 本当なら、巫女としての務めが終わるのは日没近く。アイリーンがいつも見つめるのは夕日に輝く海なのだが、父王が病気で臥せって以来、朝議の後、遅れて朝の祈りに神殿を訪れ、巫女としての務めを簡略してこなし、午後一には王宮にとって返し、午後の公務をこなさなくてはならない多忙な日々が続いている。
「姫様、お迎えが参っております」
 女神の神殿は男子禁制。神官と呼ばれるのも、全て女性なので、王宮と神殿の間を警護する近衛の兵士は神殿入り口前で待機するしかない。
「姫様、本日も、アルフレッド様がお見えでございますよ」
 王女であるアイリーンは姫巫女と呼ばれているが、当然のことながら結婚することが出来る。しかし、女神の神殿に仕える巫女や神官達は皆、生涯独身の誓いを立てている。そのため、アイリーンの婚約者であり、近衛の若き隊長であるアルフレッドの存在は、少なからず恋にあこがれる若い巫女達に話題を提供していた。
「すぐに参ります」
 アイリーンは答えると、そっとため息をついた。
 リボンで縛っただけのまだ乾ききっていない髪を風に揺らし、アイリーンは神殿の階段を下りると、巨大な石像群を抜け、大きな大理石のアーチを抜けた。
 正面の門の前には馬を下りて待機する近衛兵と光り輝く馬車、そして門の前には黒曜石のような黒髪が眩しい程に凛々しい騎士、アイリーンの婚約者にして、兄である王太子ウィリアムの唯一無二の親友、若き乙女の憧れの的であるアルフレッドが立っていた。
「我が愛しのアイリーン、お迎えにあがりました」
 門の中に入れないアルフレッドは言うと、アイリーンが出てくるのを待ちきれないとでも言うように、笑顔でアイリーンを急かした。
「フレド!」
 アイリーンは名を呼ぶと、早足で門まで進み、アルフレッドに手を取られて門をくぐった。笑顔のアルフレッドは、そのまま真っ直ぐにアイリーンを馬車へと導いた。
 アルフレッドの隣に愛馬のシルバーブレードがいないという事は、今日はアルフレッドも馬車に乗って王宮まで移動すると言うことだ。
 父王が倒れて以来、移動の時間も惜しいとばかりに、大臣たちから急ぎの案件を預けられたアルフレッドは、仕方なく馬車で移動するようになっていた。
「今日は幾つかしら?」
 馬車に乗るなり、アイリーンは問いかけた。
「ああ、今日は、七件かな・・・・・・」
「それ、王宮に着くまでに終わらないと思うけど・・・・・・」
 アイリーンは書類を受け取ると、慣れた手付きでパラパラと書類を捲った。
 本来、父王が病に臥したら仕事を代わるのは王太子である兄なのだが、残念ながら、兄のウィリアムは父王よりも先に病の床に臥し、公務を行うことができないため、この二年ちょっと、アイリーンは巫女の努めの他にウィリアムの仕事も代わってこなしている。そこへ父王の仕事が上乗せとなり、アイリーンは睡眠時間を削らなくてはいけないほどで、婚約者のアルフレッドとロマンチックな語らいを持つ時間すらない。そんなアイリーンの事を思って、大臣たちがアルフレッドに書類を預けることで、若い二人が少しの間でも一緒に過ごせるようにという心遣いなのだが、日増しに増える仕事に、ロマンチックも色気も馬車の中には全く存在しなかった。

「もうダメ! フレド、この二つをお願い」
 アイリーンは言うと、書類をアルフレッドに押し返した。
「アイリ、そうは行かない。私はただの騎士で、王族でもないんだから・・・・・・」
「でも、お兄様のお考えは、私よりよく分かるでしょう? この案件は、お兄様の発案した案件だから、私が口をはさんでブレが出てはまずいのよ」
 アイリーンは頭痛を抑えるように、こめかみを指で押さえながら言った。
「そういうことか。分かった、俺が見よう」
 アルフレッドはアイリーンに代わって書類に目を通し始めた。
「フレド、後で、お茶を飲む時間はとれそう? 他にも相談したい案件があるの」
「分かった。では、いつものように、夕食後に居室に忍んでいくよ」
「ありがとう」
 二人は会話もそこそこに、猛スピードで書類に目を通していった。
 王宮に着く直前、アイリーンが五件全てに署名を済ませ、残りの二件をアルフレッドから受け取り、口述筆記の要領でアイリーンが指示を書き込んでいった。
「間に合った・・・・・・」
 アイリーンは言うと、書類を纏めてアルフレッドに手渡した。
「アイリ、顔色が悪い。早く濡れた髪を乾かさないと風邪をひく」
「ありがとうフレド。でも、すぐに午後の謁見よ。倒れないように、祈っていて」
 アイリーンは言うと、馬車が止まるのを待ち、アルフレッドのエスコートで馬車を降りると、真っ直ぐに謁見の間へと向かった。