お転婆姫は命がけ。兄を訪ねて三千里!

 夕食まで眠ったアイリーンは、サロンでディナーを摂り、カルヴァドスと甲板の上の夜の散歩に出かけた。
 船に乗ったすぐの頃から考えたら、食事の後に揺れる船の上を歩くなど、奇跡の芸当だったが、今のアイリーンは食休みしてからなら、食後でも甲板の上を歩くことができた。

「姫さん、船首へ行こうか?」
 カルヴァドスの誘いに、アイリーンは喜んで頷いた。
「船首に行ったら、海の女神にお祈りを捧げでもってよろしいですか?」
 アイリーンは月明かりに照らされた、カルヴァドスの精悍な顔を見上げて問いかけた。
「もちろん。姫さんのお祈りなら、願ったりだぜ。御利益高そうだからな」
 カルヴァドスはアイリーンの手を引いて、ゆっくりと船首へと向かった。
 月明かりだけが頼りの夜の甲板を進んでいくと、船首に飾られた海の女神像が月の光に輝いていた。
 アイリーンはその場に跪くと、静かに祈りを捧げた。

(・・・・・・・・海の女神さま、大海の北斗七星号をお守りくださってありがとうございます。間もなくエクソシア帝国の領海に入り、エクソシアを越えればタリアレーナ王国です。どうか、大海の北斗七星号が無事にタリアレーナに辿り着けるように、この船とクルーの皆さんをお守り下さい。そして、タリアレーナで、一日も早くお兄様を見つけることが出来るように、そして、古より海の女神さまの神殿を守ってきたデロス王家の正当なる後継者であるウィリアムお兄様が、無事にデロスに帰国することが出来るように、どうか女神さま、私にお力をお貸し下さいませ・・・・・・・・)

 アイリーンが祈りを捧げる間、カルヴァドスは少し距離を置いて月明かりに照らされ、まるで海の女神がそこにいるかのように見える神秘的なアイリーンの姿を見守った。

 祈りを終えたアイリーンが顔を上げると、カルヴァドスはスッと歩み寄り、手をさしのべてアイリーンが立ち上がるのを助けた。
 いくら船に慣れたとはいえ、揺れの大きい船首で跪いた状態から立ち上がるには、まだまだアイリーンには経験が足りなかった。
「ありがとうございます」
 アイリーンが礼を言う言葉を聞くのがもどかしくて、カルヴァドスはアイリーンを抱き寄せた。
「姫さん、姫さんの事を名前で呼んでもいいか?」
 カルヴァドスの問いに、アイリーンは躊躇した。

(・・・・・・・・名前・・・・・・。私がカルヴァドスさんに教えたのは、アイリスという偽名と、ローズの名前。どちらも私の名前ではない・・・・・・・・)

 かつての婚約者だったアルフレッドが想いを込めてローズマリーの事を『マリー』と呼んでいるのをアイリーンは何度となく聞いたことがあった。そして、その時のアルフレッドの声が持つ響きは、形だけの婚約者であるアイリーンを呼ぶ『アイリ』という響きとも、愛し合う二人の演技をしている時にアルフレッドが呼ぶ『アイリ』という響きとも違う、独特の深い愛情のこもった響きを持っていた。
 その事を思い出すと、カルヴァドスに教えたアイリスという偽名でも、ローズマリーから借りたローラという名前でも、アイリーンはカルヴァドスには呼ばれたくなかった。しかし、本当の名前を明かすことの出来ないアイリーンには、カルヴァドスに本当の名前で呼んでもらうことは出来なかった。

(・・・・・・・・そうか、これが恋の苦しみなのね。自分の名前を相手に呼んで貰いたいと思う気持ち。私は今まで、こんな大切なことも知らなかったのね。カルヴァドスさんに名前を呼んでもらえたら、どんなに嬉しくて幸せだろう・・・・・・・・)

 そう考えるアイリーンの脳裏に、何故か突然、見下すようでいて、まるで所有権を主張するかのようなダリウス王子の『アイリーン王女』と呼ぶ声が蘇った。

(・・・・・・・・ああ、これが私の運命(さだめ)。私が決して逃れることの出来ない運命。どれほどカルヴァドスさんを愛し、カルヴァドスさんに愛されたとしても、私はカルヴァドスさんのものにはなれない。デロスの王女として、民と国の平和のため、ダリウス殿下に嫁がなくてはならないのだから・・・・・・。でも、良かった。ダリウス殿下に結婚を迫られた時、もし私が恋を、愛を知っていたら、あの時ダリウス殿下との結婚を承諾するのに躊躇ってしまったはず。でも、私は何も知らない子供だったから、ただそれが運命だと、ダリウス殿下との結婚を受け入れることができた。でも、何も知らないまま嫁ぐのではなくて良かった。愛される喜びと、愛する苦しみを知ることが出来て・・・・・・。ダリウス殿下に嫁いでも、ダリウス殿下が私を愛することも、私がダリウス殿下を愛する事もないはず。所詮、ダリウス殿下にとって、私はダリウス殿下の所有欲を満たし、デロスを手中に治める為の手駒でしかない。私が産む子供は、デロスの王位継承権を持つことになるから。そうすれば、パレマキリア王家にデロス王家の王位継承権を持つ継承者が産まれることになる。そうすれば、きっとパレマキリアは悪辣な手段を使って、強引にデロスを統治下に治めるはず。・・・・・・それを防ぐためには、私はダリウス殿下の手駒にされないために、絶対に子供を産むわけにはいかない。もし、身籠ることがあれば、自ら命を絶つしかない・・・・・・。そうしたら、私は愛を知らないまま、一生を終えることになってしまったはず。でも、こうして、カルヴァドスさんを愛する事を知って、添い遂げることのできない苦しみを知ることが出来て良かった。今ならわかる。愛する事を知らないままの人生がどれほど悲しい人生なのか・・・・・・・・)

「アイリ・・・・・・」
 しびれを切らしたカルヴァドスが、いつもアルフレッドがアイリーンを呼ぶときに使っていた愛称を呼んだ。
 何度となくアルフレッドに呼ばれたことのある愛称だった。だが、アルフレッドに呼ばれてもアイリーンは一度もときめきを憶えたことはなかったのに、カルヴァドスに呼ばれると、アイリーンの胸は激しくときめき、燃え上がる想いは『身分も立場も忘れて、このままカルヴァドスと共に運命(さだめ)から逃げてしまえ』とアイリーンに頭の奥で囁き、アイリーンの理性を焼き尽くさんばかりに激しく炎を巻き上げた。
「アイリ、愛してる・・・・・・」

 なぜ、親しい者しか知らないアイリーンの愛称をカルヴァドスが知っているのか、いつものアイリーンならば冷静に考え、自分の正体をカルヴァドスが知っているのではと疑わなくてはいけないのに、アイリーンは全くその事に思い至らなかった。