黒須がクスっと笑った。

「取って食いやしないよ。春音、おどおどし過ぎ」

可笑しそうにさらに笑われた。
楽し気な黒須の笑い声が響く。

恥ずかしい。
今、私どんな顔してるの?笑われるぐらい動揺した顔してるの?

しっかりしなきゃ。黒須のペースになってる。
きっとわざと困らせるような事をして楽しんでるんだ。

黒須の魂胆がわかり、今度は強く腕を振り払う。
呆気ない程、簡単に腕が抜けた。

目が合うと優し気な表情を向けられ、また動悸が早くなる。
なんでいちいち翻弄されるんだろう。

「それじゃあ、今夜から頼むよ」

身を引いて、長い脚を組み替えた黒須が言った。
いきなりの言葉に眉間に皺が寄る。

何の話?

「今夜って何が?」

黒須の眉があれ?とばかりに上がった。

「この話も覚えてない?」
「だから何の話?」
「アルバイト」

黒須が微笑んだ。

アルバイト?全く記憶にない。

「うちの店で働いてくれるって言ったよ。契約書もここにあるし」

黒須がスラックスのポケットから折りたたまれた紙を出した。

「どうぞ」

受け取り、紙を広げると【雇用契約書】の文字が飛び込んでくる。
しかも契約内容を承認する私の署名まであった。

全く記憶にない。でも筆跡は私のものだ。

雇用主は黒須になってて、仕事内容はバーテンダーと書いてあった。