王都の神殿内で休息する男女の影がある。

 まるで深い森の中のように覆い茂った緑、色とりどりの花々には蝶が舞い、湧き出る水は澄んでいて蒼子達に力を与えてくれる。

 樹木の一本一本が太く、花の花弁は肉厚で瑞々しい。
 そしてその植物達には清い水が通っている。

 この空間にある全てが蒼子達の味方をしてくれるので回復はあっという間だった。

 互いに大人の姿に戻り、誰にも邪魔されることなく、二人だけの静かな空間に穏やかな時間が流れていた。

「何も告げなくて良かったのか?」

 蒼子の長い黒髪に丁寧に櫛を入れながら紅玉は問い掛けた。

「寝ている人間に何を話せと? それに遅かれ早かれあの人は城に戻る運命」
「それもそうか」

 人の目を気にしない話し方で紅玉は言う。
 紅玉の膝を枕にしながら、蒼子は書物の項を捲る。

「王印の力は争いを呼ぶ危険な存在。本来のあるべき場所に戻るのは必然。それよりも、あんたに怪我をさせたあの男」

 紅玉に怪我を負わせた舞優は風の神力使いだった。

「あんたを勧誘するつもりだったみたいよ。私が神女だと知ったらどこかに連れて行くと言ったもの。神力使いを集めた組織のようなものがあるのかも知れないわ」

 何か大きな組織が後ろにいると蒼子は言う。

「何の目的で? 最初は姉さんを殺すつもりだったはずだけど」

「雇い主と組織はまた別でしょうね」
「雇い主は最高位神女を身内から出したい貴族の誰かってとこか」
「神殿でも貴族でも、私を邪魔者扱いする連中はいくらでもいるからね。組織はの方はそうね……神力使いを集めて反政府軍でも立ち上げるつもりなんじゃない?」

 視線を書物に落としたまま、蒼子は言う。

「城の中でも動向に気を配る必要があるな」
「大きな反乱を企てる場合、必ず内部に協力者がいる。王印も見つかった。一波乱あるかもしれない」
「彼は大人しくここに戻ると思うか?」

 正直なところ、紅玉は鳳珠が気に入らないので戻らずとも構わない。
 戻ればきっと姉に会いに来るだろう。

 幼子の姿であの可愛がりようだ。身内贔屓を抜きにしてもこの美貌の姉だ。
 今度は可愛がるだけでなく、手が出かねない。

 そう考えると非常に不愉快だ。

「さあ、どうだろうね」

 いずれは戻る運命だと蒼子は言う。

 天井のガラス窓から降り注ぐ陽光は温かい。
 ここから見える青い空は酷く狭く感じる。

 あの町で見た青い空、どこまでも広大な海、海に昇る朝日に、沈む夕日、夜の星空、初めて見た時の興奮を蒼子は忘れることが出来ない。

 あの空や海に比べればこの神殿から見上げる空は何とも狭い。

 彼もそうだったのだろうか。

 鳳珠のことを思い出す。

 彼が何故に城を出たのか蒼子は知らない。
 彼もあの広い空や海、城の外の世界に憧れたのだろうか。
 そう思えば彼の気持ちも少しだけ理解できる気がする。

「紅玉、私達は二人で一つ。どこにいても繋がっている。私に付き合ってこんな所に留まる必要はないのよ」

 神女である以上、蒼子は神殿に捕らわれる。

 外の世界を巡る自由はない。

 しかし、紅玉が蒼子の目となり、耳となり、外の世界を巡ることはできるのだ。

「俺がいなければ膨れ上がった力の管理はどうするんだよ。暴発して死ぬぞ」
「死ぬ前に戻って来い」
「無茶を言うな」

 人並外れた強大な力を持って生まれた蒼子だが身体が弱かった。
 弱い身体にその大きな力を収めるのは負担がかかり過ぎる。

 しかし、一緒に生まれた紅玉だけは蒼子の力を取り込むことで蒼子の負担
を減らすことが出来た。

 紅玉は逆にあまり神力を持たなかった。蒼子に比べれば微々たるものである。その代りに強力な神力に耐えうる器を持っていた。

「二人で一つだ。側にいる」

 そう言って紅玉は蒼子の手を握る。

「うん」

 自分よりも小さい姉の手は細く、小さい。

 いつものデカい態度からは見えないが幼い頃から神殿に閉じ込められ、寂しく、辛い思いをしてきた姉を紅玉は守らなければならないと思っている。

 勿論、ずっと一緒だとは思っていない。

 姉を守れるような人物が現れるまで、その役目は自分のものだ。
 無事に婚約話を白紙に戻すことが出来て紅玉は安堵している。

 姉を任せられるのは家柄以上に、姉を思いやりと優しさで姉の心を溶かしてくれるような人でなければならない。

 一瞬、鳳珠の顔が浮かんだが紅玉はそれをかき消すように首を振る。

 あの男は嫌だ。王印を持つ王族など論外。 

 もしあの男が再び現れて姉を欲しがるようなことがあれば、俺はどうすれば良いのだろう。

「ねぇ、紅玉」
「何?」

 小さな頭が自分に寄り掛かる。

「眠いのよ。起きるまでそこにいてくれない?」
「え、起きるまで?」
「何だか嫌な夢を見そうなのよ」

 不機嫌そうな顔で蒼子は言う。

「それは予知夢を見そうってこと?」
「分からない。けど、何かが起こるのかもしれない」

 今にも閉じてしまいそうな瞼を擦る蒼子の仕草は幼い姿も大人の姿でもあまり変わりはない。

「うなされてたら起こして」
「分かった。良い夢であることを願ってるよ」

 蒼子は頭を紅玉に預けたまま、瞼を閉じる。

 しばらくするとすーすーと寝息を立て始めた。

 姉がしおらしくなる時は必ずと言っていいほど何かが起こる。
 側に居て欲しいと不安そうな顔をする時は危険なのだ。

「何が起こるんだ」

 それは蒼子にも分からなければ、誰にも分からないことだ。
 紅玉は一抹の不安を抱えながら、眠る姉の髪を撫でた。