太陽が傾き、夕焼けが美しい頃。
 丘の上に建つ広い候家の屋敷の一室で候凜抄は苛立っていた。

「どういうことなの⁉」
「も、申し訳ありません!」

 ガシャンと手にしていた杯を床に叩きつければ破片と葡萄酒が床に飛散した。
 黒い軽装に身を包んだ男が凜抄に跪く。

「たかだ小娘一匹! 何をしくじっているの!」
「側に手練れがいるようで、一度は捕えたものの……」
「何をぐずぐずしていたのよっ! この役立たず!」

 凜抄は血走った眼で目の前の男を怒りのまま罵る。

 額を床に擦り付けて必死に懇願する男の頭を凜抄は何度も踏みつけた。
 力一杯に踏みつけ、その度に男は額を強打し、床に血が流れ出す。

「凜抄様、それぐらいにして次の仕事を与えた方がよろしいかと」
「うるさいわね! 黙りなさいっ」

 控えていた詠貴が口を開くと間髪入れずに怒鳴りつけ、茶菓子の置かれた盆を投げつけた。

 茶菓子が詠貴に当たって飛び散ったのは勿論、盆が肘にぶつかり床に転がる。
 ずかずかと大股で詠貴に近付き、髪を鷲掴みにして引っ張る。

「だったら、貴女が代わりにやる? この男の代わりにあの小娘を連れて来なさいよっ」

 そう言って詠貴を突き飛ばし、倒れた詠貴の腹を蹴り上げた。

「うっ……くはっ!」
「どうかもう一度っ、機会をお与え下さい! 次は必ず連れて参りますので! どうか!」

「……ふん。まぁ、いいわ……まだ機会はあるもの。警吏に捕まった者達は始末したのでしょうね?」

「勿論です……」

 男は歯を食いしばり、俯いて答える。

「当然よね? 使えない者は要らないわ」

 興奮の波が去ったのか、落ち着きを取り戻した凜抄は椅子に腰を掛ける。

「もう一度だけ機会を与えるわ。次はないわよ」

 男は頷き、静かに部屋を後にした。

「詠貴、私が湯あみをしてる間に片付けておきなさい」
「承知しました」

 詠貴は身体を起こして頭を下げた。

 凜抄の我儘にはもう慣れた。

 このような癇癪は度々起こし、詠貴や他の使用人達を困らせた。
 気に入らない使用人は罰せられ、解雇される。

 給料は高いが彼女の我儘と癇癪に耐えられず、なかなか使用人が居着かない。

 怒りを買うまいと凜抄に媚売る者も多かったが、結局は辞めていってしまう。そうなると使用人の間で誰が凜抄の世話を押し付け合うようになった。

 その中で白羽の矢が立った、というようりも指名されたのが嘗てのこの屋敷の令嬢だった詠貴であった。

 霊玉と地主であることを証明するための印を盗まれ、追い出された父の代わりにこの屋敷に残った詠貴は凜抄や凜抄が連れて来た侍女や使用人からは使用人以下の扱いを受けていた。

 しかし、凜抄の癇癪が激しくなると元々凜抄に仕えていた侍女達も手におえなくなり、それらを詠貴の仕事にさせた。

 それからは他の侍女達の風当たりは緩和されたが凜抄からの実害が増えた。

 怪我をすることも多いが、父の為と思えばなんてことはない。
 候旋夏が隠した地主印と父が何よりも大切にしていた霊玉を父天功に取り戻すためだ。

 父は反対したが、必ずやり遂げてみせる。

 大好きな父の笑顔を町の人々の活気を取り戻すためならこれぐらいの怪我なんてなんてことない。

 しかし、今回はただの我儘では済まないことに詠貴は焦っていた。

 詠貴は蹴られた腹部を擦り、壁に寄り掛かる。
 ふと床をみれば零れた葡萄酒と血も飛び散っていた。

 先ほどの彼は大丈夫だろうか……。

 詠貴が幼い頃から屋敷に仕えていた年上の幼馴染だ。

 この屋敷に残ると決めた日に猛反対され、共にこの場所に残ってくれた唯一の人物だ。

 優しい人なのに……。

 自分がここにいることが彼の弱みになっていることは理解していた。

 彼の為にも、父の為にも現状を打破しなければ。

 竜神様……どうか、彼と父をお守りください。

 詠貴は心の中で願う。

 そして詠貴は先日出会った少女の姿を思い出す。

 一瞬で目を奪われた。幼いのに存在感があり、身体が縛られるような感覚を覚えた。しかし不快ではなく、むしろ清々しく、このままあの場に留まっていたいと思わせる不思議な少女だった。

 だが、その少女に凜抄の毒牙が迫っている。

 何の罪もない少女を男との取引に利用しようなんて馬鹿げている。
 利用するだけならまだしももしかした殺されるかも知れない。

「どうにかしないと……」

 詠貴は乱れた呼吸を整えてゆっくりと立ち上がり部屋を出た。