「出なくて良いの?」

「別に構わない」

 お店の戸を叩くような音と女の声が遠くに聞こえる。

 蒼子が訊ねるとしれっと答えた。

 ぱらっと書物を捲る音が静かに響く。
 鳳は寝室にある机で書を読んでいた。

 蒼子を膝の上に乗せて落ちないように片手を蒼子の腹部に回し、空いている手で書物を捲っている。

 しかし落ち着くはずもない。

 さっきから店の戸を叩いたり、在宅の有無を訊ねる声が聞こえては止み、聞こえては止みを繰り返しているのだ。

 話によると定休日にも関わらず店にやってくる女性は多いらしい。

 煩くて敵わないので休みの日はあまり家にいないんだとか。

 家にいる日はこうして居留守を頑なに守るのだと鳳は言う。
 蒼子は昼食を取り、お腹が一杯になってうとうとしていたところだった。

 何事かと思った。

 戸を叩く音に驚き、眠気は完全に吹き飛んだ。

「今日はお休みですって言えば良いんじゃないの?」

「顔を出せば相手をしなければならくなる」

 鳳は嫌そうな顔をして居留守を決め込もうとしている。

 しかし今回の女性は執念深い。
 しばらく経つが戸を叩く音が未だに鳴りやまない。

 これは断った方が早い。

「なら私が行くよ」
「は?」
「今日は私以外いませんって言えば帰るでしょ」

 鳳の膝から降りようとするが逞しい腕が身体に絡んで動きを封じられる。

「ダメだ。行くな」

 声を潜めて鳳が言う。

「何で」
「いいから、このままやり過ごす」

 懇願するかのような様子の鳳に首を傾げながらも頷く。
 鳳は何も言わずにぎゅっと蒼子を抱き締めたまま動かなくなる。

「どうしたの?」

 様子がおかしい。

 まるで何かに怯えているように思えた。
 鳳の背中にそっと腕を回す。

 一瞬、鳳の身体が強張るのが分かった。

 しかし、すぐに強い力で抱き締め返される。
 じっと何かに耐えようとしているように見えた。

 しばらくすると音が止む。

「もう行ったみたいだよ」

 音が完全に消えた事を確認し、蒼子は口を開いた。
 腕の力が緩み、詰まっていた二人の距離が少しだけ開く。

 見上げて鳳の表情を覗うと音がした方を睨み付けている。
 そして肩の力を抜き、息をついた。

「大丈夫?」
「あぁ、平気だ」

 力なく呟く。

 まるで嵐が去った後のような静けさが漂っている。

「借金取り?」
「うちに借金などない」

 心外だ、と口を尖らせる。
 冗談で言ったのだが真顔で返された。

「いくら借りてるの?」
「借りてないっ!」

 蒼子の冗談に鳳はムキになって言う。

 普段と変わりない姿に蒼子はほっと胸を撫で下ろした。

「良かった」
「全く。そこまで甲斐性なしではないぞ、私は」

 ふんっと鼻を鳴らす。

 そういう意味で言ったんじゃないんだけど。

 まぁ、良いか。

 机に頬杖を着いて不服そうに言う鳳は何だか子供っぽくて、少しだけ可愛いと思える。

 拗ねると子供っぽい。

 意外な一面を見れたので得した気分だ。
 カタっと勝手口の方から物音が聞こえた。

「帰って来たな」

 鳳は蒼子を膝から降ろして立ち上がり、寝室を出て行く。

 きっと柊と椋の帰宅したのだろう。

 さっきの人は誰だったのだろうかという疑問を浮かべながら蒼子も鳳の背中を追いかけて部屋を出て居間に向かった。

「やはりいらしたのね、鳳様」

 聞き覚えのない女性の声に蒼子は立ち止まる。

「何か御用でしょうか?」
「愛しい人に会うのに理由が必要かしら?」

 居間の扉の隙間から中を覗う。

 居間にあったのは見知らぬ女性の姿だった。

 甘い声で鳳の首に白い腕を絡めて顔を近づけていた。
 艶めかしい雰囲気が漂う二人に蒼子は目を逸らす。

 うっわ……気まずい。

 見ていたいような気もするが覗き見は良くない。人間として良くない。

 恋人……?

 家まで来るのだから少なからず付き合いのある女性なのだろう。
 それも積極的で女性らしい身体付きの美女だ。

 蒼子は自分の手足や胸元に視線を落とした。

 小さくて細くて板のような身体だ。

 同じ女でも大人と子供では比較にならない事を思い知った。

 いや、大人と子供では違って当たり前。同じだったらおかしいから。
 自分自身に言い聞かせるものの、気分が暗くなる。

 ああいう女の人が好きなんだろうな……。

 自分にはない豊満な胸、女特有の身体の曲線、滲む色気に勝るものを蒼子は持っていない。

 胸にチクリと針を刺したような痛みを感じた

 私だって大人の姿なら少しは……いや、無理か。

 がっくりと項垂れる。

 胸の中に黒い渦のようなものがとぐろを巻いているかのようだ。
 人を羨むってこういう事だ。

 言い方を変えれば嫉妬とも言う。

 いやいやいや、そもそも嫉妬する必要ないじゃん、私。

 別に鳳が好きだとか、そういう訳ではない。

 女性と一緒にいる場面に遭遇してもがっかりする必要も皆無だ。
 そのはずなのに気持ちは沈んだまま浮上してくれそうにない。

「次の夜が待ちきれなくて会いに来たのよ」

 猫撫で声で鳳の唇に口付ける。

「っ……!」

 二人の影が重なり合ったのを見て蒼子は息が止まるほどの衝撃を受けた。
 不快感が波のように押し寄せて来る。

 見たくもない、聞きたくない。

 男女の睦み合っている様子など見るものではない。気分が悪い。

 何だかむかむかする胸元を押さえて蒼子は物音を立てないようにくるりと方向転換して自分の寝室に戻ろうとした時だ。

「凜抄様、今日はお引き取り下さい」

 鳳は毅然と言う。

 凜抄……ってあの時の?

 聞き覚えのある名前に蒼子は立ち止まり、再び扉の隙間から二人の様子を窺う。
 以前、鳳と蒼子が出掛けて不在の間に店を訪ねて来たという女性の名前だったはずだ。

 それを椋から聞くと嫌そうな顔をして出て行き、朝方に疲弊して帰宅したのを思い出した。

 中を覗うと蔓のように絡み付こうとする凜抄とは対象的に鳳は棒のように立ったまま微動だにしていない。

 抱き合っているのではなく、一方的に抱き付かれているように見える。
 鳳の答えが意外だったのか、凜抄は驚愕の表情を浮かべて固まっていた。

「あら、どうして? これから邸へ来てもらおうと思っていたのに」
「最近は忙しく、疲れております。預かっている子供もいますので」

 鳳がそう告げると納得した表情を見せる。
 しかしその腕は鳳を捕えて離さない。

「もう日が暮れるわ。柊と椋も帰る頃でしょ?」
「一時でも一人には出来ません」
「あら、そんなに手間の掛かる子供なの? 子守なんてかわいそうに」

 ふふっと口元に笑みを浮かべる。

 何が何でも帰ってもらう。

 こんな所を蒼子に見られたら幻滅される。

 いや、子供相手に幻滅は大袈裟な気もするが、とにかく蒼子の教育にも良くない。
 さきほど扉の向こうで蒼子がこちらの様子を覗いていた。

 今は気配がない。

 おおかた、空気を読んで寝室に戻ったのだろう。

 となると……確実に見られた。

 鳳は眉を顰めた。

 おそらく、口付けられたのは見られた。

 見られていない事を願うが、見られていたとなると何と言えば良いのだろうか……。

 もう幻滅され……いや、まだ弁解の余地はあるはずだ。

 鳳は仕草には出さずに頭を抱える。

 すぐにでもこの場を離れて蒼子に弁明したい衝動に駆られるがそうもいかなそうだ。

「お優しいのは結構だけど、息抜きも大切だわ」

 この女は自分を逃がす気はないらしい。
 あからさまに拒否すれば後々面倒だ。
 かと言って従順に振る舞うのも御免だ。

 さて……どうする。

「お兄ちゃん? まだ?」

 きいっと扉が開く音と共に、蒼子の控えめな声が問い掛ける。
 きょとんとした顔をして半開きになった扉からこちらを窺っていた。

「おい、どうした」

 鳳は凜抄の腕を解き、蒼子に駆け寄り膝を着く。

 さきほどまでと違い、蒼子は肌着だけの恰好だった。
 しかも頭はびしょびしょに濡れて黒い髪にはたっぷりと水を含んでいる為、雫がぽたぽたと垂れている。

 肌着も湿っていて、まるで風呂上りに身体を拭かずに出て来たかのようだった。

「だって、お風呂……すぐ行くって言ったのにいつまで経っても来てくれないんだもん」

 蒼子は子供っぽく唇を尖らせる。

「は?」

 訳が分からない。
 言葉の意味が理解出来ずに鳳は首を傾げた。

「あら、入浴中でしたの? それで出て来るのが遅かったのね」
「え……えぇ、裸で人前に出る訳にもいきませんので」

 これはきっと蒼子が出してくれた助け船だ。

 鳳はこの船に有難く乗っかる事にした。

 凜抄が鳳の横に立つと蒼子は怯えた小動物のように鳳の影に隠れた。
 鳳の服を掴んで小さく引っ張る。

「お兄ちゃん……この人誰?」

 何だ、この可愛い生き物は。

 聞き間違いでなければ今し方お兄ちゃんと呼ばれた気がする。私の事か? お兄ちゃんとは。

「私はこの人の恋人よ」
「コイビト?」

 蒼子が分からないと言うように大きく首を傾げる。

「えぇ、愛し合う男女をそう呼ぶのよ」

 凜抄が蒼子に喜々と言い聞かせる。

「愛し合うって好きって事?」
「そうよ」

 蒼子は大きく瞬きをする。

「それ知ってる!」

 幼い子供らしくはつらつと言うとそのまま鳳にぎゅっと抱き付いた。

「なっ……!」
「そ、蒼子……?」

 いきなり胸に飛び込んで来た小さな身体に鳳は目を丸くする。

「お兄ちゃんと蒼子もコイビト」

 鳳を見上げてはにかんだ蒼子が言う。
 そして再び顔を鳳の胸に摺り寄せる。

 可愛い。

 気付けば小さな身体を抱き締め返している自分に驚いた。

「離れなさいっ!」

 キンっとしたがなり声が室内に響く。
 目くじらを立てた凜抄が二人を引き離そうと蒼子の腕を掴んだ。

「きゃっ」
「この人は私のものなのよ! 離れなさい!」

 蒼子は乱暴に鳳から引き剥がされた。

 イタタ……。

 腕を思いっ切り引っ張られたので掴まれた部分が痛い。
 しかしそれだけでは終わらなかった。

「何なのよ! あんたなんか!」

 見上げると目を吊り上げた凜抄が腕を振り上げていた。

 叩かれる!

 そう思い、反射的に目を瞑った。
 バチンと子気味良い音が響く。

 しかし痛みはない。

 それどころか全身を心地良い温もりに包まれている事に気付き、蒼子は混乱する。

 そっと目を開けると青ざめた顔をして肩を震わせている凜抄と蒼子を庇うように抱き締めて凜抄を睨み付ける鳳の姿があった。

 怖いと思った。

 無言なのに憤っているのがはっきりと見て取れる。
 纏う雰囲気に殺気のようなものが滲み、肌を刺す。
 屈んでいた鳳はゆっくりと立ち上がり、凜抄に対峙する。

 鳳は凜抄を見据えて口を開いた。

「何をされようが何を言われようが大抵の事は堪える自信がありますが……この娘が傷付くような事があれば私は誰であっても見過ごすつもりはありません」

 毅然とした態度で宣言する。
 よく通る声が静かに響く。

「ま、まだ何もしてないわ!」

 凜抄の語尾が微かに震えている。

「えぇ、貴女の手が当たらなくて心底安堵しています」

 鋭い視線を向けると凜抄は肩を震わせて少し後退る。
 怒鳴っている訳ではないのに鳳の言葉には気迫があった。

「お引き取り下さい。私はこの娘の側を離れる訳にはいきませんから」
「子守で自由に過ごせないなんてかわいそうね。自分の時間もずっと子守なんて」
「少々語弊がありましたね」

 蒼子の前で屈み込んだと思った途端、目線が上昇する。

 ちゅっと柔らかな感触が頬に触れた。

 鳳は蒼子を抱き上げ、見せ付けるように柔らかな頬に唇を落とす。

「っ……!」

 突然の出来事に蒼子は口をパクパクと開閉するだけで声が出ない。

「私がこの娘から離れたくないのですよ」

 その一言に心臓がドクンと大きく跳ねて、顔に熱が昇って来る。
 蒼子が顔を紅潮させているのを見て鳳は嬉しそうに目を細める。

 鳳に見られていると思うと殊更、恥ずかしくて顔が熱くなり、蒼子は顔を見られたくなくて俯いた。

「わ、私と過ごすよりも子守をしている方が良いって事なの?」
「ええ。私は持てる時間の全てをこの娘に費やしたい」

 甘い声が耳に絡む。
 まるで恋人に囁くように甘美な言葉だ。

「そういう事ですので今日はお引き取り下さい」
「この私をないがしろにして……どうなるか理解しているんでしょうね?」
「……」

 脅迫じみた凜抄の発言に鳳は眉を顰める。

「貴方の家とこの周辺の者達が他と比べてどれだけ優遇されているか知らない訳じゃないでしょう? 税金に加えて井戸の利用、水の値段が格安なのは地主の娘である私のお陰よ?」

 脅しだ。

 凜抄の言葉であらかた事情を察した。

 鳳は鳳だけでなくこの周辺一帯を弱味として握られてるんだ。

 だからその気がなくても相手をしなきゃならなかったのか。

 鳳の心労の直接的な原因は彼女で間違いない。

 そしてこの人の父親が天功から地主の座を奪い取った人物だ。

 親子揃ってとんでもない奴らだな。

「貴方にそんな態度をされたら私、お父様に泣きつくしかなくなってしまうわ」

 一度は鳳の気迫に押された凜抄だったが余裕を取り戻して再び鳳に迫る。

「貴方が優しいのは結構な事だけど……私にも優しくしてくれないと悲しいわ」

 ふふっと妖しい微笑みを口元に浮かべながら凜抄は白い手を鳳に伸ばす。

 鳳は黙ったまま動かない。

「触らないで」

 凜抄の手が鳳の顔に触れる寸前の所で止まる。
 凜抄と鳳が驚きの表情を浮かべてこちらを見ていた。

 あれ……?
 もしかして今のは私の声?

 無意識に口から出た言葉に自分でも驚いてしまう。

 気付くと凜抄が顔を歪めて鬼の形相で蒼子を睨んでいた。

 怖い……。

 その様子に一瞬怯んだが冷静になればなんて事はない。
 私がいようといなかろうとこの人に鳳の心を掴むのは無理だ。

「そんなやり方では人の心は奪えない」
「何ですって?」
「人の心を縛れるのは魅力だけ。身体は束縛出来てもこんなやり方では心を縛る事は出来ない」

 蒼子は凜抄を見据えて告げる。

 それがこの世の理だ。

 心は自由だ。

 どんな風にどんな場所で拘束されても、心だけは縛れない。
 心を縛れるとしたら、それはその人の心を強く惹きつける魅力だけだ。

「あんたみたいな子供に何が分かるのよ!」

 キッと蒼子をねめつけていきり立つ。

「失礼致します」

 いきり立つ凜抄の声とは対称的に涼し気な声が空気を裂いた。
 そこには二十代半ばぐらいだろうか、落ち着いた色味の服を着た女性が立っていた。

 突然現れた女性に鳳は驚く。

「貴女は……」

「ご無沙汰しております、鳳様」

 美しい佇まいや所作は蒼子が見惚れるほどで、可憐な容姿はまるで百合の花のようだと思った。しかしそれだけではない。

 何だろう……不思議な感じがする。

 儚く可憐な印象を受けたのと同時に決して無視できないほどの大きな存在感がある。不思議な人だ。

「何なの詠貴、車で待ちなさいと言ってあるでしょう」
「旦那様より、至急お戻りになるようにとの事です」

 詠貴と呼ばれた女性は怒りに満ちた凜抄の視線を気にすることもなく言った。

「何ですって?」

 凜抄はそれを聞いて一瞬だけ躊躇する様子をみせた。

「今日は帰ってあげるわ。どうなっても知らなくてよ!」

 再び蒼子を睨み付けて吐き捨てるように背を向けてしまいに凜抄は部屋の入口に立つ詠貴を乱暴に押しのけて裏口から出て行った。

 押しのけた際、詠貴が壁にぶつかり、どんっと音を立てた。

「大丈夫?」
「えぇ」

 蒼子は詠貴に駆け寄るが詠貴は何事もなかったかのように言った。

「貴女も、怪我はない?」

 詠貴は片膝を着いて蒼子に視線を合わせて言う。

「大丈夫よ」

 蒼子が答えると詠貴と至近距離で視線が交わった。

 じっと瞳の奥を覗き込むと分かるのは詠貴も蒼子の瞳の奥を探っているという事だ。

 そしてすっと立ち上がり、今度は蒼子を見下ろした。

「あの女は怖い。近づいちゃいけないわ」

 蒼子も諭すように言う。

「鳳様、あの方にこの子を近づけないで下さいませ。では失礼」

 詠貴は鳳に向かって美しく一礼し、蒼子にはバツの悪そうな顔を見せて凜抄の後を追い掛けて姿を消した。