身体が重い。

 寝返りが打てず、身体に違和感のある重みを感じて蒼子は目を覚ました。

 差し込む光からもう起床しても良い時間だという事が分かる。
 遠くから包丁がまな板を叩く音を聞けば柊が朝食の準備をしている事も分かる。

 ガシャンと食器が割れる音がした。

 おそらく柊と朝食の準備をしていた椋が割ったのだろう。
 神経質そうで何でも器用にこなせそうな印象を受けたが彼は家事の一切を不得意とする。

 遠くで聞こえる二人の会話も何となく想像出来る。
 しかし蒼子は今の状況だけは理解出来ない。

「苦しいんだけど」

 蒼子が目を開けた時、そこにはいなかったはずの鳳の顔があった。

 鳳は蒼子の身体を抱き締めるようにして眠っている。

 最初は夢かと思い、もう一度寝て目が覚めた時にはいなくなっているはずだと思ったのだが、何度寝て覚めても鳳の姿は消えなかった。

 決して寝心地が良いとは言えない腕枕から頭を外して視線を動かすと、蒼子が使っていた枕は鳳の頭の下にあった。

 蒼子の腹の上には鳳の片腕が絡まっている。

「重い訳だ」

 そして何か冷たいものが手に触れた。
 何かと思えば鳳の髪である。
 まだ乾ききっていない鳳の黒く長い髪が寝台を濡らしていた。

 びしょびしょじゃねーか。

 それだけではなく、寝間着の襟の合わせも大きく開いて胸元が丸見えで、その寝間着も湿っている。

 蒼子は鳳の顔や手に触れるとその冷たさに身体を震わせた。

 起こすか。

 蒼子は身体に絡みついた腕をどかしてなんとか上体を起こす。
 そして大きく息を吸い込んで空気を腹に満たし、鳳の耳元に口を寄せた。

「起きろ! 風邪引くから!」

 室内に蒼子の声が響く。
 その声にゆっくりと鳳の双眸が開かれた。

「うるさいぞ……静かにしろ」
「うわっ」

 鳳の腕が伸びて再び寝台に沈められ、そのまま鳳の下敷きになる。

「お、重い……」

 ずっしりと身体全体に重みが掛かかり、身動きが出来ない。

 すーすーと気持ち良さそうな寝息が蒼子の頬に掛かる。
 目の前にある美しい鳳の顔に少しばかり胸が高鳴る。

 色白の肌に長い睫毛、形の良い唇、右目は眼帯で覆われて見えないが端整な顔立ちだ。

 男性特有の隆起した喉元、浮き出た鎖骨の線、からは並の女なら目を回すような色気が滲み、やや疲れた表情は母性を擽られる。

 そんな男に抱き締められていると思うと蒼子は落ち着かない気分だ。

 何しろ重いし、苦しいし、潰れる。

 密着した身体の所々がじんわりと冷たい。
 その冷え冷えとした感触に身震いする。

 どうにかして起こして着替えさせないと本当に風邪を引く。私まで風邪引く。

 どうしたものかと考えあぐねていると部屋の扉が控えめに叩かれた。

「どうした蒼子、でかい声だし……」

 扉から顔を覗かせたのは椋だ。
 そして状況を見るなり目を大きく見開いて絶句する。

「貴方という人は……! 何をしてるんですか!」

 椋の怒声が室内に轟く。

「一体どうしたので……」

 椋の声を聞きつけ様子を見に来た柊も蒼子の上にのしかかる鳳を見て絶句する。
 ぎりっと奥歯を強く噛み締めて鳳の背中を睨み付けた。

「貴方という人は……!」

 柊は乱暴に鳳をどかして蒼子を助け出す。
 その際、乱暴過ぎて鳳が寝台から転げ落ちた。

「ぐぁ……っう」
「目が覚めましたか、この人でなし」

 柊が寝ぼけ眼の鳳を汚い物を見るような目で見つめた。

「自分の主がここまでろくでなしだとは思わなかった」

 椋は腕を組みながら同様の視線を鳳に向ける。

「……何だ?」

 腹心達からの侮蔑の視線の意味が分からず鳳は首を傾げる。
 そして表情のない蒼子の顔を見るとふらふらと立ち上がって蒼子を抱き上げようと腕を伸ばす。

 しかし、それを阻止するように素早く柊が蒼子を抱き上げた。

 貴方には触れさせませんよ、とばかりに。

「何だ」
「鳳様、貴方は金輪際、彼女と接触禁止です」
「会話する時も一定の距離を保つ事とする」
「は? 何故」
「「危険だから」」

 口を揃えて言う柊と椋の言葉に納得出来ない様子の鳳は不機嫌そうに顔を顰めた。

「ねぇ」

 会話の外にいた蒼子が険悪な空気を壊した。

「お風呂入った方が良い」
「何だ、まだ臭いか?」

 そう言って鳳は眉間にしわを寄せて自分の匂いを確かめる。

「違う。髪も服も湿ってて身体が冷えてる。風邪引くよ」
「そう言えばいつ帰って来たんですか?」

 柊が訊ねる。

「夜明け前だ」
「それからお風呂に入ったんですか?」
「あぁ。臭くて敵わないからな」
「それ水風呂じゃないですかっ! もう!」

 その時間帯では沸かした風呂のお湯は既に冷めて水になっている。

「疲れて眠くて寒かったな」
「当たり前です!」

 柊は蒼子を降ろすと湯の準備をする為に部屋を飛び出す。

「では何で蒼子の部屋にいたんですか?」
「寝顔を見ていたらそのまま眠ってしまったようだ」
「おい。女の部屋に勝手に入るな」

 衝撃的な事実が発覚し、蒼子は鳳を睨む。

「布団を蹴って風邪を引いては困るだろう?」
「私の寝相は悪くない」
「状況は分かりました。とりあえず、一度着替えて下さい。湿った服では風邪を引きます」
「仕方ない」

 そう言って鳳は服を脱ぎ始めた。

「ここで脱ぐな」
「良いだろう。何なら一緒に入るか?」
「入らないよ!」

 先程見た鳳の肌を思い出して、顔に熱が集中する。

「何だ、赤くなって」

 意地の悪い笑みを浮かべて蒼子を自分の目線より高く抱き上げた。

「ちょっ、降ろせバカ!」
「……」

 顔を真っ赤にしながら慌てる蒼子を見て鳳は目を丸くして急に動かなくなった。

「?」

 一体どうしたのだろう……?

 蒼子が小首を傾げていると着替えを持った椋が入って来た。

「じゃれてないで風呂に行きますよ」
「……あぁ」

 言葉少なく蒼子を床に降ろして部屋を出て行った。

「疲れてるのかな……」

 女の所か、飲み屋か……。

「女だな」

 臭くて敵わないと言っていた。

 香や化粧品の匂いが混ざって本来の香りを失い、悪臭を振りまいている人も結構いる。
 男の気を引くどころか真逆の事をしてしまっている女は割と多い。

 鳳の疲労の窺える寝顔を思い出す。

 なら相手にしなければ良いと思うのだが、昨日の様子から見ると粗雑に扱えない相手なのだろう。

「大丈夫なのかしら」

 当事者の問題だ。蒼子の預かり知る事ではない。

 だが、気掛かりだ。
 私に出来る事はないだろうか?

 しかし今の自分に何が出来るかと問えば大した事は出来ない。

 自分を保つだけで一杯の状況なのだ

 ダメだ……考えるだけで疲れる。

 蒼子は寝台の湿って冷たくなっていない場所を探して寝転ぶ。

「日に日に身体が重くなってる」

 起きているだけで疲れるなんて末期だ。

 早く仲間と合流したい。

 そんな事を考えているうちに自然と意識は闇に溶けた。