◯翌日の朝、自宅のマンション。いつも通りに朝食を取る二人。

 今日の予定など、当たり障りのない会話をする。

 喧嘩は翌日に持ち越さないというのが付き合っていた頃からのルールだ。

 基本的に朝陽は争いごとを好まない。
 意見が違えば、ほぼ100%朝陽が譲った。
 朝陽にとっては、人とぶつかるよりも自分が引いたほうがずっとストレスにならないのだ。

 だから穂花と朝陽も、出逢ってからこれまで大きな喧嘩はした事がない。


 でも、表面上はいつもと変わらなくても、さすがに穂花も朝陽も、今日はいつもと同じようにはいかなかった。

 
穂花(このままじゃ、だめだ……)

◯夜、夫婦の寝室。

 穂花は何かを決心したような顔で、ベッドのヘッドボードに置かれたスマホを取った。

◯土曜日。公園。

 ここまで来るのに自宅から電車を乗り継いで四十分以上掛かった。

 穂花はベンチに座って、目の前にあるアパートをじっと見ている。
 
穂花(誰の家だろ……)
 
 スマホのGPS機能を使って、今日は会社の同僚の家に呼ばれていると出掛けて行った朝陽の居場所を特定した。
 
 昨日の夜、朝陽が寝ている間にこっそりファミリー共有機能をオンにしておいたのだ。

 他にもSNSやアプリの会話履歴を確認しようかとも思ったけれどできなかった。

 いくら夫婦であってもしてはいけない事だと理性が働いたのと、穂花の知らない朝陽を知るのが怖かったから。

 本当は、直接訊いて、話さなくてはいけないのは分かっている。
 黙ってこんなことしたくなかったけれど、でも穂花はもう、朝陽の言葉を全て信用する事はできなくなっていた。

 どんな答えを聞いても嘘なのではないかと疑ってしまいそうだった。

 だから、穂花は自分の目で確かめる事にしたのだ。


 朝陽がアパートに入ってから一時間後、アパートの入り口から、夫婦のような男女と、小学校低学年くらいの女の子が出て来た。

 どこにでもいる、子供連れの親子の姿。

 あまりに自然で、注意深く見ていなければ目に留まる事なくに見過ごしていただろう。

 子供といる男が、自分の夫でなければ。

 穂花は血の気が引いた顔で立ち尽くす。

 女の子が「パパ」と呼んで、朝陽の腕に抱きついた。

 朝陽に戸惑う様子はない。
 抱きつく女の子の頭を愛おしそうに撫でる。

 子供に大事そうに触れる手も、子供に向ける慈愛に満ちた目も、子供を慈しむ父親そのもの。

 穂香が初めて見る顔だった。


 最愛の夫は、知らない女性の隣で、知らない、父親の顔をしていた。

 
穂花(──なに、これ……)

 悲しみなのか、怒りなのか。
 一度にいろんな感情が込み上げてきて、眩暈がする。

 胃がムカムカして、吐きそうだった。
 目の前が真っ白になって、穂花はその場にしゃがみ込んだ。

 
◯ホテル

 上着も着たままの格好で、穂花は靴を履いたままベッドの上に仰向けになっている。

 両腕で隠した顔から涙がつっと溢れ落ちた。


 穂花はあの後、家には帰らずに会社の最寄駅前にあるビジネスホテルを取った。

 どうやってあの場からここまでやって来たのかも記憶は曖昧だ。

 ただ、今は絶対に朝陽には会いたくない。その気持ちだけで動いていた。

 
穂花(なんで……)

 なんで、どうして、なんで……をずっと繰り返している。

 すぐにでも朝陽に問い詰めたい気持ちと、見ない振りをして、なかった事にしたい気持ちがぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。


穂花(いつから……)
 
 たった数日前まで、いつもと変わらない生活を送っていただったはず。

 突然、ひっくり返ったかのように世界が一変した。


 遠目から見た、朝陽といた女性と子供の姿を思い浮かべる。

 小学校低学年くらいの女の子。
 顔はあまりよく見えなかったけれど、朝陽に似ていたかもしれない。

 あの子が呼んだ”パパ”が、もしも本当に朝陽の事ならば、何年も穂香を裏切っていたことになる。

穂花(気づかなかっただけ……?)

 穂花が異変を感じたのはここ最近の事だ。

 嘘が下手な朝陽が、ずっと穂花を騙し続けていたとは思えないけれど──。

穂花(分かんない……)
 
 少なくとも、夫婦仲はずっと上手くいっていた。
 
 レスでもなく、ちゃんとセックスもしてる。

 他人からも羨ましがられるくらい、夫は愛妻家だった。
 
 
穂花(どうしてどうしてどうしてっ……)

 冷静になって状況を把握しようと努めるが、気持ちが昂って上手くいかない。

 穂花の頭の中で、朝陽に抱かれている自分の姿が、あの女性の姿に代わる。

 ショックと、嫉妬で頭がおかしくなりそうだ。


 静かな部屋に、スマホの着信音が鳴り響く。
 
 朝陽の名前が表示された画面を見て、穂花は思い切り顔を歪めてスマホの電源を切った。

 
○マンション。日曜日の午後。

 ホテルから帰宅すると、家には誰もいなかった。
 鞄からスマホを取り出して、昨日から何度か入っている朝陽からのメッセージを感情のない目で追う。

 穂花も返信を返しているが、いつ、どうやって送ったのかまったく覚えていない。

 今日も朝陽は朝から出掛けたようだ。
 一番新しいメッセージには、また「急な仕事」が入ったといった内容が書かれている。
 
穂花(今日もまた、昨日の女性と会っているの?……)
  
 ソファに座り、テレビもつけずにぼんやりとしていると部屋にインターフォンが鳴り響いた。

 ハッとしてスマホを見ると、この場所に座ってからすでに三時間以上経過していた。

 ゆっくり立ち上がり、インターフォンまでのろのろと歩く。

 インターフォンの画面を見て息を飲んだ。

 画面に映っていたのは、昨日朝陽と一緒にいた女性だった。

○マンションのゲストルーム。

茉里「すごいですね。マンションにこんなスペースがあるなんて。ホテルみたい」

 通されたゲストルームを見渡して、女性、園田茉里は無邪気な声をあげる。

 ラウンジまで出迎えに行った穂花に「園田茉里」と名乗った女性は、朝陽のことで話したいことがあると告げた。

 部屋にはあげたくなかった穂花は、人目を気にしないで話せるマンションのゲストルームを借りて、茉里を案内した。

 茉里に悪びれる様子はなく、穂花に対しても堂々とした態度だ。

 
 窓際には椅子とテーブルが置かれた応接スペースがあるが、ふたりとも立ったまま会話を続ける。


茉里「朝陽が今日、どこで何をしているか知っています?」

 何も言わない穂花に、茉里は笑顔で問い掛ける。
 その答えを自分は持っているのだと言っているような顔だ。

 もうさすがに「仕事」ではないのだと分かっているから、穂花は何も言えずに唇を噛み締めた。

茉里「今、娘を動物園に連れて行ってくれているんです。パパと二人で出掛けるのは初めてだから、娘、すっごく喜んじゃって、昨日の夜から大はしゃぎ」


穂花「ぱぱ……」

茉里「きのう、うちの前にいらしてたでしょう?」


茉里「一緒にいた女の子。私と朝陽の娘です」


 昨日から、何度も浮かんできたその答えを改めて突きつけられて、穂花は目の前が真っ暗になった。


○マンション部屋。

 帰ってきた朝陽が、リビングにいる穂花をみて驚いた声で名前を呼ぶ。


朝陽「電気付けないで、何してるの」

 部屋の電気が付けられて穂花は眩しさに目を細める。


穂花「……お仕事、大丈夫だった?」

朝陽「あ……うん、なんとか、無事終わった」

  嘘つきと心の中で罵って、穂花は暗い笑みを浮かべる。


穂花「動物園は楽しかったの?」

 朝陽の顔色がさっと変わる。

 朝陽の反応を見てショックを受けた自分がおかしくて、自嘲した。

 実際目にして、相手の女性まで現れたというのに、まだ自分は夫を信じて淡い期待を抱いていたのだ。

 朝陽は自分を裏切らないと。

朝陽「のんちゃ……」

穂花「今日、園田さんという方が、うちに来た……」


朝陽「のんちゃん」

穂花「昨日も、園田さんといたでしょう。私、見たよ」
  
 朝陽がぎくりと体を強ばらせる。

穂花「朝陽が手を繋いでた女の子、朝陽の子供だって言われた」


 眉間に皺を寄せた朝陽が、瞳をぎゅっと閉じて項垂れるようにして頷いた。

 その顔を見て、あの女性の話が真実なのだと分かった。

○穂花回想。昼間の茉里との会話。

茉里「朝陽と別れてすぐに、妊娠が発覚して、その時は……元夫の子供だと思って産んだの」


茉里「妊娠した時期とか状況とか考えても、血液型も夫と同じだったから、夫の子供だと信じて疑ってなかった。でも娘が成長していくと、少しずつ、違和感みたいなのを感じるようになって……」


茉里「夫の方も、何かおかしいと感じることがあったんでしょうね。知らない間にDNA検査をされていて、自分の子供じゃないと分かった夫は激怒して離婚を突きつけてきた」


茉里「夫の子でないのなら、娘の子供は100%朝陽の子供です」



茉里「私は、子供の為にも、朝陽と娘と親子三人で暮らしたいと思っています。朝陽にもそれは伝えてある」

 

茉里「やっぱり血の繋がりって、切っても切れない深い絆なんですね。娘も元夫よりもずっと朝陽に懐いてて、朝陽も、最初は戸惑っていたけど、すぐに娘を受け入れてくれました。娘との時間を取り戻そうと、時間を見つけては会いに来てくれています」

 ここ最近、自分との時間よりも他を優先していた朝陽を思い出して、穂花の胸がきゅっと詰まる。
 

穂花「……もし、その子が朝陽の子供だとしても、朝陽は私の夫です」

 かろうじて、妻としての矜持を見せた。

 朝陽の妻は自分だと言い聞かせる。

 いくら預かり知らぬ所で朝陽の子供が産まれていたとしても、それは覆らない。

 怯むなと、身体中の力を振り絞って今にも崩れ落ちそうな膝を支えた。

茉里「ええ。だから別れて欲しくて」

穂花「勝手なこと、言わないでください」

 怒りや無理矢理押し込めて、なるべく平坦に話すように意識した。
 この人に、動揺していると悟られたくない。
 

茉里「勝手? 朝陽には娘に対する責任があるわ」

穂花「あなたの話が本当だとして、朝陽に子供がいたとしても、責任を取る事と、私達夫婦が離婚をする事は別問題です」


茉里「朝陽が、私達といる事を望んだら?」


穂花「っ」

茉里「朝陽はずっと子供が欲しかったって言ってた。娘といる時の彼、とても幸せそうよ」

 勝ち誇ったような茉里の笑顔。

 穂花は何も言えずに、その場に立ち尽くしていた。

○回想終わり。現在に戻る。

穂花「話して」
朝陽「のんちゃん、待って……」

穂花「ぜんぶ話してよっ!!」

 朝陽の両腕に掴みかかって、怒鳴った。

 こんなに至近距離にいても、朝陽は取り乱す穂花とは目を合わせない。
 顔を逸らしたまま、苦しげに話し出した。
 
朝陽「彼女は、結婚前に付き合っていた女性で……」


朝陽「あの女の子は、俺の、」


朝陽「俺の……娘」


 目眩がして、穂花は膝から崩れ落ちた。

朝陽「のんちゃんっ!!」

穂花「さわ、ないで……」
 
 目が回っているのか、高速回転ジェットコースターに連続して乗ったみたいに頭の中がぐわんぐわんしている。

 視点が定まらなくて、激しい頭痛と吐き気に襲われる。

 目を開けるのがつらくて、背中を丸めて疼くまっていると、ふいに身体がふわりと宙に浮いたのが分かった。
 朝陽が穂花を抱き上げたのだ。

 固く目を瞑っていると、そのまま少しずつ、意識が遠のいていった。


◯病院。

 穂花は点滴に繋がれている。
 ベッドの横には、朝陽が心配そうな顔をしてパイプ椅子に座っている。

 
 倒れるなんて生まれて初めてだった。
 
 ここの所、家にいない朝陽がどこで何をしているのか気になって、碌に食事を取っていなかったせいだろう。

 朝陽と子供と、その母親の姿を思い出して、唇を噛み締める。
 
 悔しさと惨めさとが怒涛のように押し寄せてきて、苦しい。


 自分が信じてきた夫婦の絆が、ガラガラと崩れ落ちていくのを感じていた。