○土曜日の午前中。マンションのリビング。

 穂花はソファを背もたれにして床に座っている。
 ソファに座っている朝陽を振り返り、スマホの画面を見せる。 

穂花「朝陽ー、今日のランチ、このお店行ってみない?」

 土曜日は二人で近所を散歩して、そのついでにお店を探して外食をする。カフェ巡りはふたりの趣味のひとつだ。

 朝陽が屈んでスマホの画面を覗き込む。

朝陽「へぇ、こんな店できてたんだ。いいよ、混みそうだからちょっと時間ずらして行こうか」
    
穂花「お腹すいちゃったから、早めがいいな。朝ご飯早かったし」

朝陽「ん。じゃあ、ぼちぼち出ますか」



○目黒川沿い。
 
 二人は手を繋いで歩く。時々、ランナーが二人の横を通り過ぎていく。

 途中、朝陽のスマホが鳴り、歩きながら画面を確認する。
 
穂花「どうしたの?」
 
 硬い表情でスマホを見る朝陽に、穂花は気遣わし気に声をかけた。

朝陽「ごめん、のんちゃん。仕事のトラブル……」
穂花「えっ、大丈夫?」

朝陽「うん。でも俺の担当のやつだから……ちょっと今から会社行ってくるわ」

 デートを楽しみにしていた穂花は、しゅんと肩を落とす。
   
穂花「分かった。せっかくここまで来たし、私、ひとりで行ってこようかな」
  
 家に戻ってもどうせ一人で食べることになるし、この後一緒に買い物に行く予定だったので冷蔵庫には大したものは何もない。
 それなら美味しいものを食べに行った方が気分も紛れる。

朝陽「ごめんね。次は絶対一緒に行こう」

穂花「うん、どんなお店か、しっかりリサーチしとくよ」

 一度家に戻って会社に行くという朝陽を、笑顔で手を振って見送った。

◯木曜日の夜。マンション。
 
 お風呂上がり、濡れた髪を肩に掛けたタオルで拭きながら、ダイニングテーブルの上に置かれたスマホに手を伸ばす。

穂花(また……)

 
『帰り遅くなるから先に寝てて。ごめんね!』

 朝陽から来ていたメッセージを読んで、ため息をついた。
 ここ数日、朝陽は残業だと言って帰宅が深夜近くになっている。

 穂花は忙しくなると帰宅が日付を跨ぐ事も珍しくないけれど、朝陽の会社は余程の事情がない限り二十二時を超える残業は禁止されているらしく、残業をしてもこれまでは二十一時には帰って来ていたのだ。

 仕事だという朝陽の言葉を疑ってはいないのに、なんだか胸騒ぎがして穂花は中々寝付けなかった。
 

○会社の社員食堂。ランチの時間帯。

篠田「お疲れ」
穂花「……お疲れ様」

 うどんを食べていた箸を止めて、篠田を見上げる。

 篠田は定食が乗ったトレーを置いて、穂花の目の前の椅子に腰を下ろす。

篠田「何か、あった?」
穂花「ん?」

篠田「珍しいから。塩澤があんなケアレスミス」

穂花「……ごめんなさい」

 視線を落とした穂花は、ぺこりと頭を下げる。
 
 取引先へ昨日までにデータを送ると約束していたのに忘れてしまい「どうなっているのか」と問い合わせがあった。

 こちらから何度も交渉に足を運び、やっと担当者に取り次いで貰えた重要な取引先だ。
 熱心にアプローチしておいて、決まった途端に気を抜いたように思われただろう。

 謝罪した時の担当者の様子からして、こちらに対する信用を失ってしまったのは明白だった。
 もしかしたら、今後の取引にも影響してしまうかもしれない。


篠田「ミスは誰にでもあることだし、周りに言われなくても、塩澤なら反省もリカバリもしっかりするだろうから、謝罪はもう必要ないけど……」

 表情を曇らせて、穂花の顔を窺う。

篠田「ここの所、疲れてるっつーか……なんか、悩んでる?」

 真剣な眼差しにドキッと心臓が揺れた。

 話すかどうか数分迷って、口を開く。

穂花「篠田君。最近、朝陽と連絡取ってる?」

篠田「椎名と? 最近は、ないかな。沖縄のホテルの予約の事で連絡したのが最後」

穂花「そっか……」

篠田「椎名と何かあったの?」

穂花「……ううん。最近、朝陽、休日も仕事が忙しいらしくて、あまり二人でゆっくりする時間なくて……」


 あのランチのドタキャンから、朝陽は度々約束を反故するようになっていた。
 
 理由は仕事や友達から呼び出しだったりと様々だが、これだけ重なるとさすがに不安になってしまう。


篠田「クライアントの都合で、予定外に過密スケジュールになることはあるって聞いた事あるけど」

穂花「うん……」

 それでも、これまで休日を返上してまで仕事をすることはなかったのだ。

 朝陽は、仕事や友人との付き合いよりも家庭を優先する人だ。
   
 キャリアに拘りがある穂花と違って仕事に対する向上心もあまりなく、何よりも夫婦で過ごす時間を大切にしている。
 

篠田「心配しなくても、あいつは塩澤にベタ惚れだよ」

 詳しい話はしていないのに、何を疑っているのかも篠田はお見通しのようだ。

篠田「会うと毎回のように惚気られるし、酔うと未だに結婚できたのは俺のおかげだって感謝される」

 とっておきの秘密を教える子供のような篠田の顔につられて、穂花も小さく微笑んだ。

 穂花と朝陽は、篠田の紹介で出逢った。

 当時、恋人と別れてどん底に落ち込んでいた朝陽に新しい恋をと、篠田が無理矢理穂花とのサシ飲みに連れてきたのだ。

 仕事でもプライベートでもテキパキと物事をこなす穂花は、おっとりのんびりしている朝陽とは最初の頃はあまり合わないと思っていたけれど、ふたりで過ごすうちに朝陽の優しさに心が癒されるようになり穂花から告白をした。

 真っ赤になって、俺でいいの?! と狼狽えていた朝陽の顔を見て、堪らなく愛しさが込み上げてきた当時を思い出す。

穂花(そう、心配することはない)
 
 自分に言い聞かせるように、心の中で呟いた。

 朝陽がくれる愛情は、あの頃と変わらず一心に穂花に向けられているのを、身体と心でしっかり感じているのだから。


◯横浜のホテル。結婚記念日。

 毎年、プロポーズをしてくれた時に泊まったホテルの同じ部屋を予約している。

 今年は日曜日なので、月曜日はふたりで有給を取った。

 朝陽も穂花も、どの記念日よりもこの日をとても大切にしている。

 午前中はみなとみらいを散歩して、ランチを食べてからホテルにチェックインをした。

 十四時。まだ外は明るいけれど、ふたりは部屋に入った早々にベッドの上に横たわり、キスをしながら戯れ合うように身体に触れ合っていた。
 
 朝陽のスマホの着信音が鳴る。
 ふたりを包む甘い雰囲気が、一気に冷たくなる。

 穂花に触れていた手を止めてベッドサイドテーブルに置いてあったスマホを取ると、朝陽はパウダールームの中に入ってドアを閉めてしまった。

 寝室からは朝陽の声がぼんやり聞こえてくるだけで、会話の内容は分からない。

 穂花は不安そうな顔で俯く。

 ドアが開く音がして顔を上げると、朝陽が申し訳なさそうな顔をしてベッドまで戻ってきた。

 嫌な予感に胸が騒めく。
 
朝陽「のんちゃん、ごめん。母親からで……、なんか話があるから今から来いって」

穂花「えっ」

 不満気な穂花の様子を察したのか、朝陽が再び「ごめんね」と頭を撫でながら謝る。


穂花「……電話じゃダメなの?」

 基本的に穂花は文句や我儘を言わない。
 ここ最近の朝陽の行動に不信感を抱いても、朝陽を信じて何も言わなかった。

 だけど、こんな日にまで夫婦の予定を反故にされれば、さすがにふたりの関係をおざなりにされているように感じてしまう。


朝陽「何があったか知らないけど、直接来いって……。なんかめちゃくちゃ機嫌悪そうだから、行かないと向こうから来そうな雰囲気……」

 大袈裟な話ではなく、義母ならばそうするだろうと穂花にも分かる。
 うちに来る時も義実家に呼び寄せる時も、いつもこっちの予定はお構いなしの人だ。

 穂花は正直、義母が苦手だった。


穂花「私も行った方がいい?」

朝陽「俺一人で行くよ。機嫌悪い時に会って、のんちゃんに当たられても困る」

 不妊治療を止め子供を諦めてから、双方の親や親戚付き合いは最小限に留めていた。

 親達は悪気なく子供への期待を捨てずにいるし、
歳の近い親戚達の子供達の姿を見るのも辛い。

 特に朝陽の両親は、いまだに子供を産まない事を納得していない節があり、隙を見ては穂花を説得しようとしてくる。

 嫌味を言われる事もあるけれど、朝陽が庇ってはくれるので、何とか義母との関係は平穏を保てていた。

朝陽「なるべく早く戻って来るから。のんちゃんは、のんびりしてて。エステとか行ってもいいし。ここのサロン、行きたがってたでしょ」

穂花「……うん。そうだね」

穂花(そんな気分になれるわけないのに──)

 二人で過ごすはずだった時間に、ひとりで何をしても虚しいだけだ。

 本当は、結婚記念日だから行かないでと言いたい。


 以前の朝陽だったら、事故や病気でもない限り、穂花を優先したのではないかと、モヤモヤする。

 七年目ともなると特別感も薄れてしまうものなのか。

穂花「いってらっしゃい。お義母さんによろしく伝えて。一緒に行かなくて、ごめんね」

 朝陽が穂花の両手を取る。
 
朝陽「俺の方が、ごめん。とりあえず行っておけば、母さんも気が治ると思うから」

 未だにこの日を特別に思っている穂花は悲しくなったけれど、それを顔には出さないように気をつけて笑って送り出した。

 朝陽が出ていったドアを、穂花は暫く見つめていた。

 朝陽と、気持ちの温度差を初めて感じて、何だか泣きたくなった。


◯夜。二十一時。

 朝陽が酷く暗い顔をしてホテルに戻ってきた。
 
穂花「お帰り」

 朝陽は小さな声で「ん」と返す。

穂花「お義母さん、どうだった?」

朝陽「大した用事じゃなかったよ」

 踏み込むなとバリアを張られた気がして、朝陽の返事に穂花は顔を顰める。

穂花「でも、随分時間かかって………」

 今日でなければ、穂花も何も言わなかった。

 結婚したからといって、義実家の家族とは血の繋がりで言えば赤の他人。
 嫁には話せない事や知られたくない事情があって当然だと思うから、穂花も踏み込まない。

 でも、二人で過ごすつもりでいた結婚記念日を反故にして行ったのだから、ちゃんと理由は説明して欲しかった。

 何より、こんな態度は朝陽らしくない。
 

穂花「……ね、最近、どうしたの?」

朝陽「べつに……」

穂花「何もないわけない。変だよ、朝陽」

 目を逸らす朝陽。

朝陽「ごめんね……。色々、落ち着いたら、ちゃんと言う、から」


穂花(ということは、やっぱり、何かあるの?)

 疑心暗鬼になりながらも、穂花の考え過ぎであって欲しいと希望を持っていた。

 だけど、何かある。
 簡単には話せない、何か重要な事が──。

穂花「……別れたいとか、思ってないよね」

朝陽「のんちゃんっ!」

 朝陽が穂花の両肩を掴む。

朝陽「思うわけないよ! 俺が好きなのはのんちゃんだけだよ! それは信じて!」


穂花「……分かった」

 納得した顔ではなかったけれど、頷いた穂花を見て朝陽はほっと息を吐く。

 何だか誤魔化されたようで気持ちは晴れないけれど、もしかしたらこのまま有耶無耶にしておいた方がいいのかもしれない。

 朝陽が隠している秘密は、夫婦にとってパンドラの箱になるような予感がした。

朝陽「のんちゃん」

 朝陽が穂花をぎゅっと抱きしめ、ベッドに倒れ込む。
 
 濃厚な口付けを交わしながら、朝陽は性急に穂花の服に手をかけた。

 今は抱き合う気持ちには慣れなかったけれど、拒否して、夫の心が離れてしまうのが怖くて穂花は黙って受け入れた。


◯抱き合った後のベッド。

朝陽「のんちゃ……」

 手を伸ばしてきた朝陽から、身体を引いて距離を取る。

 傷いた顔をする朝陽。

朝陽「のんちゃん」

穂花「……なんで」

 穂花は涙で濡れる瞳で、朝陽に非難の視線を向ける。
 
穂花「どうして……」

 朝陽は穂花が止めるのを聞かず、避妊をしないで繋がった。
 乱暴に抱かれたわけではなかったけれど、駄目だと何度も言っても聞いてくれなかった。

 二人とも黙って俯く。
 長い沈黙のあと、静まり返った部屋に朝陽の重たい声が流れてきた。

朝陽「……そんなに駄目?」

穂花「朝陽」

朝陽「同意なく、そのまましたのは、ごめん……でも」

 朝陽は泣きそうな顔をして、穂花を見つめる。

朝陽「のんちゃんも、どうして、そんなに……。そんなに俺の子供を産むのは嫌……?」

 珍しく穂花を責めるような言い方をする朝陽に、穂花は戸惑いながら返す。

穂花「なに、言ってるの。そうじゃないでしょ、 そういう問題じゃなくて……ふたりで決めて、約束したじゃない」

 
朝陽「決めたからって、ずっと、同じでいないと駄目なの? 考え方だって、人は変わるのに……」

穂花「朝陽」

朝陽「俺達、夫婦なのに……」

 朝陽が言いたい事は分かるし、間違っているとも思わない。

 穂花だって、セックスをしてる以上は万が一の妊娠の可能性もちゃんと考えてはいる。

 特に穂花はピルが合わず、長期で服用が出来ないので、避妊も確実ではない。
 
 
 それに、いくら子供を持たないと決めているといっても、二人は子供が欲しくないわけではない。
 むしろ、欲しかったからこそこの選択をしたのだ。
 これ以上、妊娠や子供のことで傷つかない為に。

 だからもしも、偶然にも奇跡的に子供に恵まれたら、穂花だって嬉しい。

 でも愛し合ったうえでの結果ならともかく、こんな二人の気持ちが伴わないセックスで子供が出来ても喜べるとは思えない。
 
 
 夫婦にとって何が一番幸せかを、一緒に悩んで考えて決めたのに、穂花のことも、ふたりの覚悟も、適当に扱われたようで悲しかったのだ。

 
 それを伝えようと口を開きかけると、朝陽はベッドから出て、穂花に背を向けて立ち上がった。


朝陽「……ごめん。のんちゃんが困るなら………あとで、婦人科行こう。アフターピル貰えば、大丈夫なはずだから」

穂花「そうじゃなくてっ」

朝陽「シャワー浴びて来るね」

 淡々とした口調で話す朝陽は、まるで知らない人のように感情が見えない顔をしている。
 

 思いやりも愛情も感じられない言葉を朝陽から聞いたのは初めてだ。

 穂花は初めて、朝陽の考えていることが分からなくなっていた。