数日後の夜、19時。駅に近い個室の居酒屋で、さなえは瞬に拝み倒されていた。瞬は同い年の父方の従兄弟だ。髪の毛がサラサラのイケメンで、ここに来る途中、何度も女の子が瞬を振り返った。
「いいよ、いいよ。瞬ちゃんが悪いわけじゃないから」
「いや、でも、田島を紹介したのは俺だしさ。まさかそんな、別れ際に水ぶっかけるような奴だとは思ってなかったんだ。あいつ、普段おとなしいから」
「うん…私も、もっと遠まわしな言い方、すればよかった。ストレートすぎたかも」
「でも、おつきあいできません、って言っただけだろ。まったく、あいつ…!」
「もういいから。それよりも食べようよ、冷めちゃう」
 テーブルに並んだ料理を指差してさなえが言った。瞬が注文してくれたとはいえ、テーブルからはみだしそうな品数だ。
「こんなに食べきれるかな」
 思わずさなえがそう言うと、瞬がにかっと笑った。
「大丈夫、もう一人、来るから」
「え?」
「俺なりにさなえになんか罪滅ぼしできないかなって考えたんだ。それでこれ、思い出して」
 さっ、と瞬は、自分のバッグの中から、A4サイズの紙を出した。あ、とさなえは口を開けた。その紙はイタリア語講座の受講生募集のチラシだった。2か月前、さなえが作ったものだ。
 24歳のさなえは普段、9時から17時のシフトで小さな会社の経理事務をやっている。お給料はそこそこだが、きつい残業がないのがいい。仕事にも慣れてきた3年目、せっかく17時から時間が空いているのだから、と副業をすることにした。それがイタリア語講座だ。
 さなえは幼い頃、イタリアに住んでいたことがある。日本に帰ってきてからも、イタリアの思い出を忘れたくなくて、自分なりにイタリア語の勉強を続けていた。ラジオ放送のイタリア語講座は、今でも欠かさず聴いている。大学でもイタリア語を専攻して、教授からもイタリア語講師をすればいいのに、と言われたことがある。
 だから、まあ初心者向けの講座なら教えられるんじゃ、という気持で集客をしてみた。チラシはもちろん、HPも作ったし、インスタもアップした。ところが面白いくらい反応がない。
 なかなか思うようにいかないもんだね、と瞬にちらりとこぼしたことがあった。
「さなえはさ、今、実績を作るときだと思うんだよ。だから、宣伝になるような特別なこと、しないとさ。こんなチラシじゃだめだよ」