「あなたとはおつきあいできません」
 伊藤さなえがそう言った次の瞬間、視界がぼやけた。
「…俺、あきらめないからな」
 そう言って田島が去って行ったのがわかった。前髪のあたりがひんやりと冷たい。
ああ、私、水をぶっかけられたんだ。
 気づくのが遅いな自分、とつっ込んでいる間にも髪の毛から水滴がしたたる。
 とっさのことで、よくわからないが、ひょっとすると周りのお客さんが注目しているかもしれない。カフェの真ん中の席。否応なしに目立っているはず。ここはまず、トイレに駆け込んでペーパータオルで拭くべきか。いや、トイレに行く最中に床を水滴で汚してしまう。歩く迷惑だ。
 とりあえず、バッグに入ってるハンカチで―-
 ふぁ。
 やわらかいものが、頭に触れたのがわかった。ふわふわのタオルだった。
 今、一番ほしかったもの!と思ったのと顔を上げるのが同時だった。
 横を見ると、一人の男性が立っていた。長身でジャケットに細身のパンツを合わせている。さなえの頭にタオルをかけてくれたのは彼らしい。大き目のバッグを肩からかけていて、タオルはそこから出てきたようだ。その人がぼそり、と呟いた。
「水ぱしゃなんてされると、みじめな気持になってしまうもんやけど。あんたは悪くない。こんな公衆の面前でやる男の方が悪い。必要以上に落ち込まんことやな」
 ぽん、とタオルごしにそっと頭に手を置かれた。ぽんぽんするリズムが落ち込むな、と言っているようだ。
 さなえは慌てて髪の毛をタオルで拭き、男性にタオルの御礼を言おうとした。
「あのっ…」
 ありがとうございました。タオルはクリーニングに出して返します。
 そう言いたかったけれど、男性は、もうどこかへ行ってしまっていた。さっきまでぽんぽんしてくれてたのに。
 さなえはもう一度ふわふわタオルで髪の毛をよく拭いた。バッグから髪ゴムを取り出し、おろしていた髪の毛を小さくまとめた。立ち上がってテーブルと椅子についた水滴を拭いた。
 レジに向かった。落ち着いて支払いを済ませられたのは、ふわふわタオルのおかげだった。
「御礼、言いたかったなあ…」
 呟いて、カフェを後にした。

「ごめん。ほんっとーに、ごめん!」