泡沫の夢の中で、一寸先の幸せを。【完】


彩乃が家を出てから少しして私も家を出る。

その前にお気に入りセーラー服を身に纏い、胸下まで伸びた黒髪を櫛で整えて。

「いってきます!」

「いってらっしゃい、佳乃」

ポカポカとした笑顔で送り出してくれるお母さんは私と喋る時はいつも名前を呼ぶ。

きっと、私が自分の名前を忘れないように。

幸い症状が酷くなるよりも前に私は自分の名前を認識していたから名前を忘れた事は今までにないけれど、こうなってしまった原因すら分かっていない今、いつ、どんな症状が出るか分からない。

もしかしたらどんどん記憶力が低下して記憶が一日しか持たなくなってしまうかもしれないし、自分の名前も両親さえも分からなくなってしまう可能性だってあるわけで。だからきっとお母さんは私の名前を呼ぶ。「佳乃」って、優しい声で。

きっとお母さんが今まで一番口にした言葉は私の名前なんじゃないかってくらいに。


新緑の葉が風に揺れ、ジリジリと頭頂部を照らす太陽。

今は丁度、春と夏の間といったところだろうか。

海沿いの道路を歩きながら、潮の香りに鼻腔を擽られればなんだか気分が上がる。

香りとは不思議で、嗅ぐとその時の事を思い出せる様な気がするんだ。

実際に思い出せるわけではないけれど、例えば、春の花の匂いや梅雨の雨の匂い。

その香りがした時、それが現実なのかは曖昧なものの、この香りをどこかで嗅いだ気がしてくるのは不思議だ。


昔の恋人とよく聞いていた歌を数年後聞いた時にその時の思い出が蘇ってくる感覚と似ている、のかもしれない。

もちろんこれは私が匂いについての感覚をお母さんに話した時にお母さんが言っていた言葉で、実際の私には恋人なんて居たことはないし思い出だって蘇ってはくれないけれど、そういう感覚に似ているのだと思う。感覚的には。

だから私は毎朝通学の時に、空気を思いっきり吸い込む様にしている。

そうするとこの記憶障害も何かが変わるんじゃないかって思って。

何も変わらないとしても、心が晴れてくれる気がするから。