「ガイア! ごめんなさい、お願いがあるの!」
「へっ? 何ですか急に」
「とにかく急いでいるから、すぐにお願いできるかしら。少しこっちへ来て!」


 美術館のスタッフたちに見えないよう、私とガイアは壁際まで移動する。
 夏は過ぎたとは言え、日中はまだ暑さの残るこの季節。ガイアも薄着で手袋もしていない。


(あのシャツの袖をちょっとだけめくってもらって、腕を掴ませてもらえないかしら)


 私は意を決してガイアの顔を見上げる。
 ガイアはぎょっとした顔で、一歩後ずさった。


「お願いよ、ちょっとだけ袖をめくって見せて欲しいの」
「そっ、袖を? 俺のですか?」
「そうよ、急いで。ラルフ様が戻って来る前に。ちょっとだけ、ちょっとだけでいいの」
「マリネットさん、怖いっす! 何で俺がそんなこと」
「腕の一本や二本、減るものじゃないでしょう? ちょっと見るだけよ」
「そんなことして、ラルフ様にボコボコにされないっすかね?」
「今なら大丈夫。すぐにして!」


 私の勢いに押されたのか、ガイアはしぶしぶ袖口のホックを外して、袖をめくり上げた。穴が開くほど必死で見ていたからか、袖が上がって肌色が露出するのが、まるでスローモーションのように遅く感じる。

 ゆっくりと現れる騎士の逞しい腕。
 そこには私の想像していたのとは少し違う異なものが、確かな存在感を放っていた。


「これは……っ!」
「なんすか。もういいですか?」
「何なの? これは。まさか……毛? 腕にこんなに毛が?」


 ガイアの腕には手首の少し上あたりから肘にかけてこんもりと、彼の髪の色と同じ金色の草原が広がっていた。
 ガイアにおさわりする気満々だった私も、これには躊躇した。


(いいの? |金色(こんじき)の草原に足を踏みいれちゃって、いいの?)


 まさか、ラルフ様の腕にも同じように栗色の草原が広がっているのだろうか。私は何かに押されるように、その金色に手を伸ばした。
 すると草原に到達する直前で手首を掴まれ、ガイアの腕から引き離される。


「マリネット、どういうつもりだ」
「あ、ラルフ様……。見つかっちゃった……」





 今日の勤務を終え、私とラルフ様は使用人用の食堂で向かい合って座っている。

 朝からずっと不機嫌な顔だったラルフ様は、噴火直前の火山のように静かに怒りを沈めている。
 私はただ、ラルフ様と二人の生活のために、事前に男性恐怖症が治ったかどうか確認したかっただけなのに。

(どうしてこんなに睨まれないといけないのかしら)

 食事の間も一言も声を発しないラルフ様に、致し方なく私の方から折れて話しかけた。


「ラルフ様、今日のことは誤解ですよ。別にガイアのことをどうにかしようと思ったんじゃありません」
「……そんなことは分かってる」
「じゃあ、どうして怒るの? 私は、もしかしたら男性恐怖症が治ったんじゃないかなって、ラルフ様に内緒で確かめたかっただけなんです」
「何で俺に隠す必要がある?」
「それは……」


 言えない。男性恐怖症がもし治っていたら、ラルフ様とキス以上のことができるかもしれないと思ったなんて。
 何よそれ、私がまるでものすごくラルフ様のことが好きで、触れられたいと期待しているみたいじゃないの。

 ……いや、正直に言うとその通りなんだけど。

 私は口を真一文字に結んだまま、目だけ動かしてラルフ様を見た。

 食事を終えたトレイを持って、呆れた顔をしたラルフ様が立ち上がる。私を置いて自室に戻る気だ。


「え、待ってよ」
「俺の妻は、夫に対して隠し事があるらしいからな。そこまで信頼されていないとは思わなかった」


(もう! ものすごく拗ねちゃってるわ! 面倒ね)


 食事のために食堂を出入りする使用人たちの間をすり抜けて、ラルフ様を追う。使用人棟に向かう前の、あのいつもの庭園の入口の傍で、私はラルフ様に追いついた。
 シャツの裾を掴んで、何とか彼を引き留める。


「ねえ、待って。別にラルフ様が怒るようなことはしてないんですから」
「仮にも夫の目の前で、他の男の腕を舐めるように見る妻だぞ。これが怒らずに済むと思うか?」
「もう、だから……!」


 ラルフ様にちゃんと説明しようにも、こんなに人の行き来が多いこの場所では恥ずかしくて言えるわけがない。私はラルフ様のシャツの裾を掴んだまま、庭園の方に引っ張った。
 いつも二人で夕日を眺める長椅子までラルフ様を連れて来ると、私は彼の裾から手を放す。


「こんなだから、いつまでも犬猿の仲の夫婦なんて言われるんですよ。いいですか? 恥ずかしいから聞き流してくれるなら、本当のことを言います」
「聞き流す……何だそれは。とにかく早く言え」
「うーん、だから……」


 私は観念して、男性恐怖症が治ったかどうかをラルフ様と一緒に暮らす前に確かめたかったことを伝えた。

「なんだ、そんなことか」
「そんなことか、じゃないですよ! 私は本気で悩んでたんですから」
「どうして焦る必要がある? 別に、一緒に暮らし始めてからでもゆっくり確認すればいいだろう」
「だって、それは」


 この人は、本当に鈍い男だ。
 確かに私たちの始まりは、ラルフ様がしつこく私に好きだの結婚してくれだの迫ってきたことかもしれない。でも、私がおひとりさま生活を捨ててラルフ様と二人で歩む道を選んだのは、私だってラルフ様のことが大切だったからなのだ。


(もう少し、愛されてる自信を持ってほしいなあ)


 私は自分からラルフ様の首に腕を回し、彼の耳元で正直に本当のことを言った。ラルフ様と一緒に暮らしたら、『妻としての役目』を果たしたいのだと。ここまで言えば、いくら彼でも分かるはずだ。

 顔は見えていないけれど、彼の頬がカッと熱くなるのが分かる。


「キス以上のことを……するつもりがあるのか?」


 ラルフ様は私の肩に顔を埋め、モゴモゴと照れながら喋る。恥ずかしすぎて顔を見合わせられないのは、彼も同じのようだ。


「馬鹿ですね。私だって早くこの体質を治して……つまりは、そういうつもりでいるってことです!」