王城の使用人たちの朝は早い。
 朝日が昇る頃にはもう、使用人たちは次々と棟の階段を降りて王城に向かう。

 暑い夏が過ぎて、朝の空気がひんやりと涼しくなってきたその日、私マリネット・ヴェルナーは使用人棟の階段の踊り場で、とある決意を固めていた。

 ラルフ様と結婚式を挙げてから、早くも半年が過ぎようとしている。

 相変わらず私たち――『私たち』というのは、私と私の夫であるラルフ・ヴェルナーのことだが――王城の使用人棟に住まい、ジーク国王陛下の教育係として日々働いている。
 日々のお仕事に追われて、新居をどこにするかなんて考える暇もなかったからだ。

 しかしそんな私たちにもついに、使用人棟を出る日が近付いて来た。
 ヴェルナー侯爵家のタウンハウス別邸の改築が終わり、私とラルフ様はそこに移ることになったのだった。


(まずい、まずいわ)


 タウンハウスへ移る日が近付いて来るにつれ、私の不安は募っていく。

 結婚はしたものの使用人棟で別々に生活している私たちは、結婚する前と何ら変わらず過ごしていた。しかし、一緒に住むとなれば話は別だ。


「克服しなければ……早く……」


 ぶつぶつと爪を噛みながら呟く私のうしろから、同僚のリズがポンと肩を叩く。


「マリネット、おはよう。悪魔のような形相をしているわよ。どうしたの? こんな階段の途中で道草食ってないで、早く行きましょう」


 リズはジーク国王陛下の侍女で、今の私の一番の親友だ。
 私の個人的事情である男性恐怖症のことも全てお話したので、何かにつけて助けてくれている。


「ところで、貴女の男性恐怖症はもう治ったの? ラルフ様とは普通にしているけど……」
「それよ。さすがにラルフ様のことは、だんだん大丈夫になってきた。手を繋いだりとか、ちょっと触ったくらいじゃ何ともないのよ」
「仮にも夫に対して、『ちょっとしか触らせない』ってすごいわよね。前は堂々と屋外でキスしたりしてたじゃない」
「うわあぁっ! それは言わないで! あの時は、直接キスしたんじゃなくてハンカチ越しだった……と言うか、とにかくそんな話は今どうでもいいの!」


 リズには、あの夜会の日のラルフ様とのキスを目撃されていた。あの日のことは今思い出しても恥ずかしくなるので、そっと頭の隅っこにしまっておきたいのに。

 それに今の私の悩みは、全く別のところにある。





 結婚してからもラルフ様は私に無理をさせることなく、手を繋いだり、たまにはキスをしたり、少しずつ男性恐怖症が治るように私の『練習』に付き合ってくれている。
 その成果なのか最近はラルフ様に触れても発作が起こることはなくて、この半年一度も気を失って倒れたこともない。


(もしかしたら、男性恐怖症を克服したのかも……)


 自分でもそう考えるほどに、順調に回復しているのだ。
 でも、ラルフ様を克服するだけではまだ足りない。真に男性恐怖症を克服したのであれば、ラルフ様以外の男性に触れても大丈夫なはずだ。

 私の目下の悩みは、それ。
 ラルフ様以外の男性に触れても大丈夫だと言うことを、確かめねば! と思っているのだ。


(このまま行けば、いつかは私も侯爵夫人としてヴェルナー家を支えていかなければいけない立場。社交で他の男性とダンスしたりすることもあるわよね。そんな時に、突然失神するとか、絶対にあり得ない……)


 それに、いざラルフ様と一緒に暮らすようになれば、今までのような甘えた事は言っていられない。ラルフ様は侯爵家の嫡男なのだ。私もいつかはヴェルナー家の後継者を産まなければならないだろう。

 完全に男性恐怖症を克服したとなれば、きっと私もラルフ様とキス以上のこともできるはず……!

 ラルフ様との日々の『練習』で少し自信もついたし、よーし決めた!


「私マリネット・ヴェルナー、今日は夫以外の男性におさわりするわよ!」
「ちょっとマリネット!! 大声でそんなことを叫ぶの止めて!」