『――君の心は要らない』

 彼は、ハッキリとそう言った。

 運命の人だと思っていたのに。
 共に時を過ごして、想いが通じ合ったと思っていたのに。

 私はここで、永遠に幽霊でいるしかないのだろうか。
 アベル様との時間がとても楽しかったから、もう他の人を待つ気にはならない。いっそのこと、このまま消滅してしまいたい。

 いつか運命の人が迎えにきてくれたら、私を愛してくれたら。
 きっと私は人間に戻って幸せに暮らせる。
 そう思っていた。

 アベル様は、色々調べるからこのまま待っていて欲しいと言った。私の心は拒絶したくせに、一体何を調べて戻って来ると言うの?

 鏡を持ってきて、私を消滅させる?

 私の弱みを知っている彼ならできる。鏡を見たら、私は消滅して『無』に戻るのだ。

 もう、それでもいいかもしれない。でも残念ながら、この家には鏡がない。

 無になりたくても、なれない。



 夏至の日の夜、湖のほとり。

 月を見ながら考え事をしようと思ったのに、今日は新月だったようだ。長い昼が終わり、ようやく夜を迎えたオルタナの森は、いつも以上に深く漆黒の闇に包まれる。

 湖の中に両足を付け、岸にそのまま寝転んで夜空を見上げる。ジージーと鳴く虫の声だけが、あたりに小さく響いていた。


 静寂の中、遠くで小枝を踏む小さな音が聞こえた。

(――誰か、来たの? アベル様?)

 湖に足を付けたまま、私はその場で身をもたげた。
 彼には、まだ私の姿が見えるだろうか。それとも、このサファイア色のオーラだけが見えるのだろうか。

 月明かりのない今日は、近付いて来る人がアベル様なのかどうか、すぐには分からない。

 念のため、石を積んである場所まで移動しよう。そう思った瞬間、

「そこにいるのか?」

 聞こえてきたのは、知らない男の声だった。

 暗さで顔は見えないが、私たちの距離は人の背丈二人分くらい。大人の男性なら一瞬で詰められる距離だ。


――怖い。


 剣を鞘から抜く金属音がして、私の青いオーラの光に照らされて盾らしきものが見えた。盾には、何か布がかかっている。

「……もしかして、鏡なの?」

 男が布に手をかける。
 私は湖から両足を上げ、濡れた裸足のまま走り始める。

(嫌よ、まだ消えたくない――!)

「おい、待て!!」

 私の後ろから、大きな足音が追って来る。私のオーラの光が、目印になっているのだ。
 私があの鏡で自分の姿を映して見れば、私は消滅する。無になる。あの人との大切な時間の思い出も、無になってしまう。
 最後にあの人に会いたかった。ちゃんとお別れを言いたかった。

 息を切らせて、必死で走る。

 いくらこの暴漢が私に触れられないとしても、あの剣を体に刺されて動きを封じ込められてしまえば、もう動けない。

 家の後ろ側に回ってオーラを隠そう。
 そう思って角を曲がろうとしたその時、空を切る音がして、ナイフが私の肩に刺さった。
 そのまま私は、地面に倒れ込む。

「手間をかけさせやがって」

 低く太い声の大男が私の側に寄ってくる。大きな鏡らしきものを地面に置くと、私のオーラを目印にしたのか、倒れた私の体のすぐ横に立った。
 うつ伏せに倒れれば良かったのに、肩に刺さったナイフをとっさに抜いた勢いで、仰向けに倒れてしまった。このまま目の前で鏡を見せられたら、私は消滅してしまう。

 男は両手で剣を下向きに握り、私の体を跨ぐように立った。

「オーラの中央あたりが(サファイア)かな?」

 剣の先が私の胸のあたりをゆらゆらと、(サファイア)を探り当てるように揺れる。

(大丈夫、私は幽霊なんだから。刺されたって死なない。痛みにさえ耐えれば大丈夫よ)

 恐怖をごまかすように自分に言い聞かせる。

 そして男は思い切り剣を両手で振り上げ、私の体の中心をめがけて、一気に突き下ろした。