ベンチに戻ってきた皆の顔を見た莉愛は顔をしかめた。良い感じに進められた……と思っていたところ、一気に不利な状況に陥り、集中が途切れてしまったといった感じだろうか。
ふーっと莉愛は肺に残っていた空気を吐き出し瞳を閉じると、すぐに新鮮な酸素を肺いっぱいに取り込み閉じていた瞳を開けた。
「みんなどうしたの?もう負けたって顔をしているわね。まだ試合終了のホイッスルは鳴ってはいないわよ。ここからだって逆転できる。あと……たったの三点取れば良い。出来るでしょう?」
たったの三点……。
どよぉーーん。と、どよんでいた空気が、キョトンといったよく分からない雰囲気へと変わる。
「ぷっ莉愛嬢たったの三点てっ……」
赤尾がたまらず吹き出した。
その三点取ることが大変だというのに、余裕だろと言うように言葉を発する莉愛。そんな莉愛を見つめ、皆の気が抜けていく。
「そうだな……たったの三点だ」
「そうだよ。逆転できる」
大地と熊川も逆転できると声に出した。
それを見て莉愛は大きく頷いた。そして大地の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「大地……竹田との約束覚えているわよね。私は竹田の元に行く気は無い。あなたが私を守ってくれると信じているから」
それを聞いた大地が莉愛の瞳を真っ直ぐ見つめ返した。
「ああ、分かっている」
そう言った大地から、まるでこちらを射貫くような瞳を向けられ、視線を逸らしそうになったが、莉愛はそれを必死に堪えた。そして大地を奮い立たせる言葉をこれでもかと、浴びせるように投げかける。
「それならここで誓いなさい。私を竹田に奪わせる事は許さない。私を最後まで守り抜きなさい。あなたなら出来るでしょう」
莉愛の言葉に大地の全身がゾワリと震える。自然と莉愛の前に膝を付き、頭を垂れていた。そして、そっと頭を上げると視線の先には莉愛の手が……。大地は流れるように莉愛の手を優しく掴むと、その指先にキスを落とした。大地は莉愛の指先に唇を押し当てたまま、上目遣いで莉愛と視線を合わせる。強く熱い視線を向けられ、莉愛はたじろぎそうになるのをもう一度堪えた。
指先から大地の唇が離れると、莉愛の手を軽く掴んだままの状態で大地がもう一度頭を垂れた。
「女王の仰せの通りに」
それを見ていた観客席から悲鳴のような声が広がっていく。
「キャーー!何ナニなに今の!!」
「何これ現実?かっこいい!」
「やばい!女王と騎士じゃん」
「やーん。最高過ぎる!眼福ーー!」
そんな東京体育館のどよめきに、狼栄の選手は気づかない。今は目の前にいる絶対的な存在に、全ての意識を持って行かれていたからだ。そんな莉愛を前に、狼栄の選手達も大地同様、自然と膝を付き頭を垂れた。それを見た莉愛が、着ていたジャージをもう一度マントの様に肩に掛け、妖艶に笑うと組んでいた右手を前に出した。
「さあ、行きなさい、最後の戦いに!そして私に勝利をささげなさい!」
疲れ果て負けを覚悟していた狼栄のみんなの顔に生気が戻り、今コートに立つ皆は負けることなんて考えていない。
勝利!
その言葉だけを胸にそこに立っていた。
大丈夫。
勝負はここからだ。
点を取られなければ良いだけ。
14-12勝利まであと三点!
鳳凰の野田がサーブのため高くボールを上げた。体が強ばっているのか、動きの硬い野田から放たれたボールは体育館の床に沈んだ。
が……。
「ピッ」
審判のホイッスル音。
「アウト」
野田から放たれたボールはエンドラインを超えアウトとなった。
野田は顔を蒼白にし、カタカタと体を震わせながら項垂れた。野田は鳳凰学園で唯一、一年生でレギュラーを勝ち取った選手だと聞いている。初の春高の舞台でこの緊迫感に耐えられなかったのだろう。カタカタと震える肩がここからでも確認できる。
かわいそうにと思うが、今は……今だけは野田に感謝してしまう。
そんな野田の肩を、豪がバシバシと叩いた。
「良くやったな。この緊張感の中、よく全力で打った。逆にフ抜けたサーブ打ち込んだら殴ってやろうかと思ったぞ」
そう言って、豪がニッと笑うと、野田は目に貯めていた涙を手の甲でゴシゴシと拭き取った。
「大丈夫だ。次で挽回だ」
「うっす!」
14-13。
あと二点。
狼栄の安齋は床にボールを突いた。ここ何ヶ月かの間に安齋は莉愛からジャンプサーブの強化を指示されていた。元々背が高く手足の長い俺はミドルブロッカーとしてブロックの強化に勤しんでいたが、姫川さんからサーブはフローターサーブより、ジャンプサーブの方が良いと提案された。何でも手足が長くバネがあるため威力が出せると。そしてその成果をここで発揮したい。
安齋はボールをクルリと手の中で回転させ、瞳を閉じ一度深く深呼吸してから、閉じていた瞳を開いた。キーンと耳の奥が嫌な音を立てた後、静まり返る。ザワザワと観客が何かしらの音を立てているが、集中している安齋の耳には何も聞こえていなかった。
スッとボール高く上げると、安齋はそれを追いかけるように視線で追い、一歩前に進んで両膝に力を入れると大きくジャンプした。ボールが手に当たった瞬間確信する。
いける。
安齋の手を離れたボールは鳳凰コートへ。
今日一番の安齋のジャンプサーブだったが、それを八屋が上に上げてきた。しかし、ボールを上げた八屋の口から「チッ」と舌打ちが漏れる。ボールは上に上がったが真上には上がらず、コートを逸れエンドラインを超えていく。それを鳳凰の野田と、遠野が追いかける。どちらが取るのか……東野の目に、自分より一瞬早くボールに飛びつく野田の姿が映る。
野田頼む。
ボールに飛びついた野田が手首にボールが触れる。
「あがれえぇぇぇぇーーーー!!」
ボールが大きな放物線を描き、狼栄のコートへと飛んできた。
チャンスボール。
野田はエンドラインの向こうでうつ伏せになり、ボールを追いかけていた東野もエンドラインの向こう側、コートにいるのは四人。
赤尾が選んだ攻撃は速攻!
赤尾は通常よりも低くネットに近い位置にボールを上げると、それに飛びついたのは、絶対的スーパーエース大地だった。大地はいつもより短めの助走で、ボールに手を伸ばした。
「ズバンッ」
中継の河野が興奮し、立ち上がると椅子が音を立てて倒れた。
「14-14ーーーー!!同点に並んだあぁぁぁーー!!素晴らしい。春高最後の試合にふさわしい激闘。息をするのも忘れるほどの緊張と緊迫感の中、熾烈で激烈……恐ろしいほどの熱戦。この試合に立ち会えたことを河野は嬉しく思います。さあ、残るは後1点。どちらが取るのか!そして勝利を手にするのは鳳凰学園か、それとも狼栄大学高等学校なのか!」
あと一点いける。
そう思い、顔を上げた莉愛の目に飛び込んできたのはボールを持つ豪の姿……。
そうだった。
ここでローテーションしたボールは竹田豪の元に。
狼栄から息を呑む音が聞こえてくる様だった。嫌な空気になりかけたその時、熊川が楽しそうに笑った。
「あはは。絶対上げてやからさ。後は頼むよ」
その頼もしい声に、皆がそっと息を吐き、大地が声を荒げる。
「そうだな。あと1点!絶対取って、女王を守り抜くぞ」
「「「うっす!!」」」
豪はボウルを床に突きながら、莉愛に視線を向ける。すると一瞬だけその瞳と視線が交わるも、すぐにその瞳は逸らされてしまう。それを寂しく感じながら、口角を上げた。
今、目を逸らされたとしても、俺がサーブを打つ時だけは俺を見てくれるだろう。
ボールを握った右手を前に出すと、こちらを睨みつけるように見つめる莉愛の姿が見える。
くくくっ……いいね~。その強気な瞳。
俄然やる気が出る。
いくぞ、狼栄……大崎大地。
勝負だ!
ジャンプサーブの体勢に入った豪が手にしていたボールを天井に向かって高く上げた。大きく上がったボールがまるでスローモーションの様にゆっくりと落ちてくる。それを豪が追うように飛びつき、全身を使ってサーブを打ち込んできた。大きな体躯を活かした豪快なサーブは、驚異と言うより凶器。「バシンッ」と言う手に当たる音と共に飛んでくるボール。
お願い上げて!
莉愛は手を組み祈るように、ボールを見つめた。
そしてそのボールは熊川の元に……。
「バズンッ」
肌に当たったとは思えないような音と共に、ボールが上に上がった。
「上げたぞ!」
熊川の声が聞こえてくる。その声に頷いて赤尾が答えると、トスを上げる。それに合わせたのは尾形だった。
この試合が終われば、赤尾さん、大地さん、熊川さんは三年で卒業だ。次にこのチームを引っ張っていくのは俺なんだ。俺は大地さんの後を継がなければならない。あの大きな背中に追いつかなければならないんだ。そのためにも、ここで決めたいと思う。大地さんの……狼栄のスーパーエースの名に恥じないように。
尾形はグッと力を入れスパイクの体勢に入る。
それを見ていた莉愛が、ハッと尾形に視線を向ける。
いけない。
力みすぎ……それにタイミングが……。
尾形の手から離れたボールは、鳳凰のブロックに阻まれ、ネット前にたたき落とされる。
ダメ!
落ちる……。
そう思ったとき、それを反射神経で、熊川が拾い上げた。
「おおーー」
「すげーー」
観客席から驚嘆の声が漏れ聞こえてくるが、まだ試合は終わっていない。熊川の上げたボールは、赤尾の手の中へとすっぽりと収まり、大地へと渡る。
大地お願い決めて!
大地がスパイクの体勢に入るとそれに合わせて、鳳凰の選手がブロックのため飛び上がる。
あっ……。
ボールはまたも、鳳凰のブロックに阻まれネット際に落ちていく。
今度こそダメか……。
こんな時は何故だろう。
本当にスローモーションの様にボールが落ちていくのが見える。
皆の焦る顔までもがはっきりと見えたその瞬間、またも熊川が床を滑るようにしてボールに飛び付き上に上げた。そしてボールはもう一度赤尾から大地へ。
お願い。
今度こそ決めて!
大地がスパイクの体勢に入る。
すると鳳凰のミドルブロッカー達は大地にボールが渡るのを読んでいたのだろう。大地のスパイクを打つタイミングに合わせて、ジャンプした。
またブロックに大地のスパイクが阻まれると思ったが、ミドルブロッカーの手にボールが触れることは無く床に着地してしまう。ボールはまだ体育館の空間に浮かんでいるというのいに……。そしてそこに浮かんでいるのはボールだけでは無かった。大地もまたボールに合わせるように浮かんでいた。
それは莉愛が得意とする、滞空時間を活かしたスパイクだった。
「ズドンッ」
「…………」
東京体育館に一瞬の静寂が訪れる。
そして……。
「ピピーー!!試合終了、勝者狼栄大学高等学校!!」
勝った……。
「シャーー!!」
大地の声が聞こえてきたが、その様子を莉愛はボーッと眺めていた。ずっと緊張状態でいたせいだろうか、脳が上手く機能してくれない。
悔しそうに涙を流す鳳凰の選手達がコートに崩れる様に膝を付いている。自分も悔しいだろうに涙を堪え、目元を赤くしながら選手達の肩を叩く豪の姿。そして、最後にボールを拾い続けた熊川と大地の元に選手達が集まっている。
青春の一ページを象ったようなその光景はまるで時間がそこだけ止まっているように見える。そんな皆の姿を見続けていた莉愛の元に、汗だくの大地がやって来た。頬から顎へと流れる汗がキラキラと輝いている。それを無造作に拭った大地が両手を伸ばした。
「莉愛!!」
自分の名を呼ばれても莉愛はジッと動かず大地を見つめ続けた。そんな莉愛の背中を金井コーチがそっと押し出した。
「行ってきなさい」
足が一歩前へ出たことで、莉愛の時間が動き出す。莉愛は一歩一歩を踏みしめるように歩き、最後は大地に飛びついた。そんな莉愛を受け止めた大地が莉愛を包み込む様に抱きしめた。
「莉愛、勝ったぞ」
「うん。大地……約束守ってくれて、ありがとう」
「ああ……莉愛、お前が守れて良かった」
そう言った大地の方へと顔を上げると、そこには零れるような笑みを浮かべた大地がいた。
そんな顔反則だ。
心臓が痛いぐらいに締め付けられるのを感じながら、莉愛は大地の背中に回していた腕に力を入れた。それに気づいた大地が莉愛を抱き上げると狼栄の皆の前に立った。
「女王を守り抜いたぞーー!!俺達の勝利だ!!」
*
「決まったーーーー!!大崎のスパイクが綺麗に決まりました。狼栄優勝!ファイナルセット、長い戦いを制し勝利を手にしたのは狼栄大学高等学校だーーーー!!見事に女王を守り抜きました。素晴らしい試合でした。春高の決勝にふさわしい最高な試合を見せてくれた両校の選手に拍手を送りましょう」
河野は涙を流しながら実況を続け、最後には翔と共に立ち上がり、両校の選手達に拍手を送った。そして観客席にいた人々も立ち上がり拍手を送ったのだった。


