翠玉宮は蒼玉宮とはまた違った雰囲気の宮殿だった。

 格式高く、荘厳なのは間違いないが、どこか温かみがあって落ち着く。主人の気性がそう思わせるのかもしれない――そんな風に思った。


「どうか楽になさってくださいね、ミーナ様。同じ妃同士、仲良くしていただけると嬉しいですわ」


 昨日も全く同じセリフを聞いたばかりだというのに、そこから受ける印象は真逆だ。ほっこりと心が温かくなり、わたしは穏やかに微笑み返す。


 翠玉宮の主――――公爵令嬢エスメラルダ様。


 輝くばかりの金髪に、新緑を思わせる美しい翠の瞳。愛らしく人懐っこい、優し気な笑み。それでいて気高く、上品でいらっしゃる。理想の貴族令嬢の姿がそこにはあった。


(なによ……アーネスト様ったら、こんなに素晴らしいお妃様がいらっしゃるんじゃない!)


 他のお二人はさておき、エスメラルダ様なら、一緒に居ても変な気疲れはしないだろう。寧ろ癒されるのではないだろうか。


(こちらにお通いになれば良いのに)


 ――――そんな風に思っていたら、ふと前方から鋭い視線を感じた。
 見ればそこには、漆黒の騎士装束に身を包んだ若い男性が佇んでいる。値踏みするような鋭い視線――――少しだけ身が竦んだ。


「コルウス!」


 エスメラルダ様は男性のことをそう呼び、険しい表情を浮かべる。コルウス様は小さくため息を吐きつつ、わたしからそっと視線を逸らした。


「ごめんなさいね。彼は私の騎士、コルウスよ。昔からすごく過保護なの」

「いえ、とんでもございません」


 答えながら、コルウス様のことをそっと覗き見る。エキゾチックな切れ長の瞳――表情からは彼が一体何を考えているのかよく分からない。けれど、そういうミステリアスな所が、却って女性を惹きつけそうな気がする。きっと、宮女や侍女の間で密かにファンがいるタイプだろう。


「ねぇ、ご存じ? 東方のとある国では、後宮に出入りする男性は皆、『生物学的に男性じゃ無く』してしまうんですって。宦官っていうんだそうよ」

「へ? ……は、はぁ」


 エスメラルダ様はまるで悪戯を報告する幼子のような表情で、わたしにそう耳打ちする。彼女の意図することがよく分からぬまま、曖昧に頷けば、エスメラルダ様はそっと瞳を細めた。


「まぁ、それは極端な例だけれど、後宮っていうのはどこも、基本的には男子禁制なのだそうよ? だって、そうしないと『帝以外の子』が皇族として育てられる……なんてことが起こりかねないですもの。我が国の後宮が寛大で良かったわねぇ、コルウス」


 そう言ってエスメラルダ様はクスクスと楽しそうに笑う。コルウス様は眉間に皺を寄せながら、彼女のことを見つめていた。


「――――本当はね、後宮入りに連れてくる騎士は女性と相場が決まっているのよ? 私だってコルウスを連れてくる気はなかったの。父上にも止められたし。当然よね……後宮は陛下のための花園だもの。だけど」


 エスメラルダ様はティーカップを手に、ゆっくりと大きく息を吐く。


「俺は、死ぬまであなたの側近くでお仕えすると誓いました」


 それまで黙っていたコルウス様がキッパリとそう口にする。力強い瞳。この件について、彼は一歩も引く気がない――――傍から見ても、そう一瞬で分かる。


「――――そうだったわね。だから、私は後宮入りを辞退しようと思っていたの。けれど……陛下が『コルウスを連れてきても構わない』と、そう仰ってくださって」


 そう言ってエスメラルダ様は、どこか遠い目をする。コルウス様は感情の読み取れない憮然とした表情のまま、やがて徐に口を開いた。


「エスメラルダ様。先程、陛下が今夜、この翠玉宮にお渡りになると――――そうお聞きしました」


 コルウス様の言葉にエスメラルダ様が目を見開く。そのまま無言で彼を見つめたかと思うと、ややしてそっと視線を逸らした。


「そう……コルウスも聞いたの。――――そろそろ支度をしなければね」


 そう言ってエスメラルダ様は、美しいお顔を曇らせる。切なげな表情だった。見ているこちらの胸が疼く。どうしてそんな顔をするのだろう。思わずそう尋ねたくなるような、魅惑的な表情だった。


「お忙しい時にお邪魔して、申し訳ございませんでした」


 立ち上がり、エスメラルダ様に向かってゆっくり頭を垂れる。エスメラルダ様は「とんでもない」と口にしつつ、躊躇いがちにわたしの耳元へと唇を寄せる。


「――――ミーナ様は、平気ですの?」

「…………え?」


 エスメラルダ様は『何が』とは言わず、気づかわし気な表情でわたしを見つめている。何となくそのまま見ていられなくて、わたしはクルリと踵を返した。わけもわからず、心臓がドキドキと鳴り響いている。


「ミーナ様、どうか、またいらっしゃってください」


 エスメラルダ様の声が、優しく響く。最後まで彼女の顔を見ることが出来ないまま、わたしはゆっくりと頭を下げた。


***


(夜だ……)


 自室のベッドに横たわりながら、そんなことを考える。静かな夜だった。理由は明白。


(今夜はアーネスト様がいらっしゃらないから)


 考えつつ、心がずーーんと沈み込む。
 アーネスト様は今夜、エスメラルダ様の居る翠玉宮にお渡りになられる。死に戻って以来初めて、わたし以外の妃の元に通うのだ。

 『一度目の人生で彼を殺した真犯人を見つける』ためだけに妃として存在しているわたしと違って、他の妃達はちゃんとしたアーネスト様のお妃様だ。

 つまり、アーネスト様が彼女達の元に通われるということは――――夜伽をなさるということ。


(アーネスト様は、『今は子を作るつもりはない』と仰っていたけど)


 今や皇族は彼一人きり。そんな中、貴族や民に『子作りをする気がない』と思わせるわけにはいかない。そのために、わたしの宮殿にも足繁く通っているのだし、他の妃達にもそうと悟られるわけにはいけないのだろう。

 だからこそ、頻度はさておき、金剛宮以外の宮殿にも通う必要がある。それは分かっているのだけど。


(どうしてこんなに、胸が苦しいんだろう)


 一度目の人生では、こんな風に感じることは無かった。そもそも、アーネスト様をお見掛けすること自体が無かったし、今夜は誰の元に通ったとか、そういう事情を知ることも全然無かった。――――――ううん、知っていたとしても、何とも思わなかったと思う。


(だって、それが当たり前だもの)


 アーネスト様は皇帝だから。わたしとは違う世界に住んでる御方だから。お妃様と仲睦まじくするのを悲しく思うなんて、馬鹿げている。だから、全然平気だった。


(今だって、全然状況は変わっていないのに)


 アーネスト様が優しくしてくださるから――――すぐ手の届く場所にいらっしゃるから、愚かにも勘違いをした。
 アーネスト様はカモフラージュのために金剛宮にいらっしゃっているだけ。ただそれだけなのに――――まるでわたしに会いに来てくれていたかのように感じていたんだ。


(エスメラルダ様はきっと、このことを仰っていたんだ)


 わたしが愚かにも『自分がアーネスト様の特別』だと、そう思い上がっていたから。アーネスト様がエスメラルダ様の元に通って『平気』なのかと――――。


(平気もクソもないわ)


 わたしはただの契約妃。それ以上でも以下でもない。身の程知らずにもほどがある。
 己が如何に、実体の伴わない『妃』という身分に浮かれているのか――――そのことを思い知った気がした。


 そんなわたしを戒めるかのように、その夜から一週間、アーネスト様が金剛宮を訪れることは無かった。