それから数日後のこと、わたしは翠玉宮にいた。


「私にお話とは?」


 エスメラルダ様は優雅に微笑み、そっと首を傾げる。
 二人きりで話したいことがあると、わざわざ時間を作ってもらったのだ。


「――――――エスメラルダ様に折り入ってお願い事がございます」


 いつも親しくしていただいているエスメラルダ様だけど、常よりも緊張感が伴う。
「何かしら?」と目を細めるエスメラルダ様に、わたしはゆっくりと頭を下げた。


「わたしはアーネスト様の妃に――――皇后に相応しい女性になりたいと思っています」


 言えば、エスメラルダ様は静かに息を呑む。驚かせてしまったのだろう。罪悪感が胸を過る。


「おこがましいことは重々承知しています。この間まで平民だったわたしが皇后になりたいだなんて、ものすごく分不相応だって。エスメラルダ様への侮辱と受け取られてしまうのではないか……そう考えもしました。だけどわたしは、アーネスト様の想いに応えたいんです」


 心臓がドキドキと鳴り響き、身体が小刻みに震える。

 アーネスト様はわたしを手放さないと――――今後、新たな妃を迎えることはないと仰った。
 それは、わたしにとっては堪らなく嬉しいことだけど、世間はそうは思わない。

 クォンツに限らず、自分の娘を後宮に上げることのできない有力貴族達は間違いなく反発するだろうし、平民出身の妃を国民がどう捉えているかも分からない。


(今はまだ、世継ぎへの期待があるから良い)


 けれど一年後、五年後、十年後――――もしもわたしに子どもが出来なかったら。
 エスメラルダ様やベラ様にも子が出来ず、馬鹿な女に入れあげたせいだとアーネスト様がそしりを受けるようなことがあったら――――そうなったら、わたしは自分を許せない。

 アーネスト様は批判を一身に引き受ける覚悟があるのだと思う。『ミーナは気にする必要ない』って笑って許してくれるとも思う。

 だけど、同じかそれ以上に、アーネスト様はわたしに期待を寄せてくれているのだと思う。人々の批判を吹き飛ばせるぐらい――――アーネスト様の決断が正しかったと皆が認めるぐらい、わたしが立派な后になれるって信じてくれている。

 そんな彼の期待に応えたい。じっとなんてして居られなかった。


「こんなこと、同じ妃であるエスメラルダ様にお願いするのは筋違いだと思います。けれどわたしは、もっともっと、妃としての自分を磨きたい。そのために、エスメラルダ様――――あなたの力を貸していただきたいのです」


 毎日、ほんの少しずつでも良い。前に向かって歩んでいきたい。
 そのために、誰よりも美しく誇り高いエスメラルダ様に、その道を指し示していただきたい……そう思ったのだ。


「頭を上げてください、ミーナ様」


 エスメラルダ様はそう仰った。緊張で指先が凍える。
 恐る恐る表情を窺えば、彼女はとても穏やかに微笑んでいた。


「そう……ミーナ様は陛下の隣に立つ覚悟をなさったのですね」


 窓の外をぼんやりと見つめ、エスメラルダ様が小さく息を吐く。憂いを帯びた瞳が、ほのかに揺れ動いていた。呆れているのとも、怒っているのとも違う。俄かには読み取れない、複雑な表情だ。


(どうなさったんだろう?)


 想像してた反応と違っているため、どうすれば良いか分からない。
 しばしの沈黙。
 やがてエスメラルダ様は意を決したように、徐に口を開いた。


「ミーナ様。私からもミーナ様に折り入ってお話したいことがございます」


 いつも凛としたエスメラルダ様の声が、今日は少しだけ震えている。


「どうか誰にも――――決して口外しないとお約束ください。ミーナ様と私、それから陛下だけの秘密にしていただきたいのです」


 エスメラルダ様はそう言うと、真剣な面持ちでわたしを見つめる。


「分かりました。お約束いたします」


 彼女が何を話そうとしているのかは分からない。けれど、こんなにも不安気なエスメラルダ様を見るのは初めてだった。余程大きな秘密を抱えているに違いない。


(そんな秘密を、どうしてわたしに?)


 疑問を抱きつつ、エスメラルダ様をじっと見つめる。エスメラルダ様は何かを躊躇う様にそっと目を伏せ、それから大きく深呼吸をした。


「初めて陛下が翠玉宮にいらっしゃった夜――――私は陛下にとある取引を持ち掛けられました」

「……取引、ですか?」


 思わぬ出だしに、わたしは小さく首を傾げる。エスメラルダ様は小さく頷くと、こちらを真っ直ぐに見つめた。


「私にはずっと……片思いをしている男性がいるのです。元々身分違いで、叶わぬ恋であることは分かっていました。入内が決まり、いよいよ彼を諦めなければならない――――忘れなければならないと、そう思いました。
けれど、できなかった。彼は私の一部で、どうしても無くてはならない存在で……何だかんだと理由付けをして後宮へ連れてきてしまう程、私は彼に恋焦がれていたのです。この恋が実らずとも、せめて側に居てほしいと――――――」


 その瞬間、わたしは大きく目を見開く。


(コルウス様だ)


 エスメラルダ様は――――ううん、エスメラルダ様もコルウス様のことを想っていた。二人は両想いだったのだ。


「入内をした以上、妃としての務めを果たさねばなりません。陛下の子を産まなければならない……けれど、私はそれが嫌だった。コルウス以外の人に触れられることが、どうしても受け入れられなかったのです。
そんな私を見抜いていたのでしょうか――――初めて翠玉宮にいらっしゃった夜、陛下はこう仰いました。

『取引をしよう、エスメラルダ――――理想的な妃として振る舞うこと――――それさえあれば、君には他に何も求めない。翠玉宮へ通っている振りはする。けれど、俺は君に一切触れない。そう約束する』

と」


 エスメラルダ様の言葉に、わたしは大きく息を呑む。


(え……? 一体、どういうこと?)


 エスメラルダ様は、神妙な面持ちでこちらを見つめていた。わたしがどんな反応をするのか怯えているらしい。身体が小刻みに震え、顔が青白くなっていた。


「一度も――――約束は破られていないのですか?」


 俄かには信じがたい話だった。
 だって、エスメラルダ様はわたしとは違って、知的で家柄も良い、本当に理想的なお妃様で。金剛宮以外でアーネスト様が通われるのは、翠玉宮――エスメラルダ様の所だけだと、そう聞いていたというのに。


「ミーナ様の仰る通りです。陛下は一度だって約束を違えることはありませんでした。嬉しかった――――それと同時に、私は大きな罪悪感を抱えていたのです」


 エスメラルダ様の声が震える。こちらまで心が締め付けられるような、そんな声音だった。


「本来ならば私は陛下の子を産み、次の皇帝を育てることを期待されています。もしも後宮が無ければ、妃に選ばれたのは私かソフィア様のどちらかだったでしょうから……。
それなのに、私は妃としての務めを放棄し、己の私利私欲に走りました。……妃を辞そうと思ったことも、一度や二度ではございません。務めを果たせない己が堪らなく情けなく、恥ずかしい。
けれど陛下が『ここを出てもコルウスとは結ばれない。他の貴族と結婚させられ、離れ離れになるぐらいなら、後宮に居た方が良いのではないか』と、そう仰ってくださって」


 いつも凛としているエスメラルダ様が、ポロポロと止め処なく涙を流す。


(そうか……そうだったんだ…………)


 契約妃はわたしだけじゃなかった――――――エスメラルダ様もまた、アーネスト様の契約妃だったのだ。

 アーネスト様の言う通り、契約はきっと、彼女の恋心を守る唯一の方法だったのだと思う。

 身分の違うエスメラルダ様とコルウス様が結ばれることは無い。しかも、貴族は未婚を貫くことが出来ないというし、彼女の想いを尊重して、白い結婚を貫いてくれる男性なんて存在しないだろう。

 けれど、責任感の強いエスメラルダ様にとって、契約は諸刃の剣だったのだ。

 恋心を守れることを喜び、それと同じだけ、務めを果たせぬ己に傷つく。彼女はその傷を、ずっとずっと一人で隠して生きてきた。辛かっただろう。苦しかっただろう。そんなエスメラルダ様の心の内が、わたしには分かる。


「――――ですから先程、ミーナ様が私に力を貸してほしいと言ってくださって……私は嬉しかった。ここに居ても良い理由が出来たような、そんな気がしたのです」


 エスメラルダ様はそう言ってわたしの手を優しく握る。


「陛下はきっと、こんな日が来ることを見越して、私をここに留められたのだと思います。私がミーナ様の矛と盾になれるように――そんな風に願って。
ですからミーナ様、どうか申し訳ないなどと思わないで。私は本当に、嬉しいのです。これは妃として、私が陛下のためにできる唯一のこと。私の全てで、あなたに皇后への道を示すことをお約束いたします」

「エスメラルダ様……」


 それは紛うことなき、エスメラルダ様の本心だった。わたしには分かる。わたしもずっと『ここに居ても良い理由』を探していたから。


「改めて、よろしくお願いいたします」


 そう言ってわたし達は微笑み合う。晴れ晴れとしたエスメラルダ様の表情を見ていると、心がほんのりと温かくなる。


(いつか、エスメラルダ様にも打ち明けられるだろうか)


 わたしがアーネスト様の契約妃だったこと。お話できる日が来たら良いなと思いつつ、わたしは一人目を瞑る。


「失礼いたします、ミーナ様!」


 けれどその時、カミラの慌てた声音が聞こえてきて、一気に現実に引き戻された。


「どうしたの、カミラ?」


 今は人払いをして、エスメラルダ様と二人きり。余程のことがない限り、声を掛けないよう伝えてある。
 それに、いつも卒のないカミラがこんなに慌てるなんて珍しい。エスメラルダ様と目配せをし、カミラに入室を促した。


「お話の最中に申し訳ございません。至急、ミーナ様のお耳に入れたい話がございまして」


 カミラの顔は青ざめている。ダラダラと汗を掻き、尋常じゃない様子だ。


「落ち着いて、一体どうしたの?」

「ミーナ様……ロキ様が…………ロキ様がっ!」


 その時、わたしは自分の耳を疑った。


「ロキ? ロキがどうかしたの?」


 身を乗り出せば、カミラはわたしを見上げた。絶望的な表情。心臓がギュッと軋み、ゴクリと反射的に唾を呑む。


「ロキ様が暴徒に襲われて、崖から転落したと――――――」


 その瞬間、目の前が真っ暗になる心地がした。