声が聞こえる。可愛らしい子どもの声――――男の子だ。


『ここが俺の秘密基地だよ!』


 快活な笑顔。顔はよく見えないけれど、繋いだ手がとても温かい。


『ミーナだけに特別に見せてあげる』


 男の子が指さした先には、よく知っている建物があった。
 金剛宮。今とちっとも変わっていない。


『ねえ、ミーナ。そんな顔しないで? 絶対また会えるから』


 男の子はそう言って笑う。おぼろげだった輪郭がハッキリと見え始めた。温かくて優しい笑顔。


『アーネスト様』


 そうだ――――この男の子はアーネスト様だ。
 涙がポロポロと零れ落ちる。アーネスト様はわたしの涙をそっと拭った。


『泣かないで。大きくなったら俺がミーナを迎えに行くよ』

『迎えに?』

『うん。だから、大きくなったら、ミーナが俺のお嫁さんになってね』

『お嫁さん? アーネスト様、お嫁さんってなに?』

『え? うーーん……お嫁さんは、美味しいご飯をたくさん食べれるし、可愛いドレスをたくさん着られるんだ。あと、俺とずっと一緒に居られる』

『そうなの?』


 涙が止まる。ずっと一緒――――その言葉がとても嬉しい。


『うん。だから、離れている間もちゃんと頑張るんだよ?』

『うん! わたし、頑張る』


 これは夢? それともわたしの記憶の一部なのだろうか。


(夢だろうな)


 アーネスト様がわたしをお嫁さんにしてくれるわけがない。そんなの、おとぎ話ですら聞かないような、馬鹿げた話だ。

 だけど、もしも夢なら、少しぐらい素直になっても良いだろうか。『好き』って伝えることも、アーネスト様の心が欲しいと思うことも、全部わたしの自由だ。
 だって、覚めないなら、それはわたしにとっての現実になる。


『好きだよ、ミーナ。約束、絶対に忘れないでね』


 ああ、なんて幸せな夢なんだろう。このまま、ずっとここに居られたら良いのに。
 アーネスト様に好きって言って貰えたら――――。



「ミーナ!」


 ドクンと大きく身体が跳ね、一気に身体が重たくなる。夢の中と同じように、誰かがわたしの手を握っている。違うのは、その手がとても大きいことだ。


「ミーナ!」


 アーネスト様がわたしを呼ぶ。手の甲に吹きかかる吐息が温かくて擽ったい。柔らかな感触に胸が疼いた。


(――――身体が動かない)


 自分が自分じゃなくなったみたいだった。身体中、どこもかしこも怠くて熱くて堪らない。喉がカラカラだった。瞼が重くて目が開けられない。顔が浮腫んでパンパンに腫れているのが分かる。


(だけど、生きてる?)


 一度目の人生で死んだ時には、痛みも何も無かったからよく分からない。
 けど、多分わたしは生きている。アーネスト様の契約妃として生きた二度目の世界線のまま、なんとか生き残れたらしい。


「アーネスト様……」


 そう言ったつもりだけど、声は殆ど出なかった。虫の息程にか細い声を、辛うじて吐く。


「ミーナ!」


 だけど、それでもアーネスト様は気づいてくれた。腫れぼったい目の隙間から、アーネスト様の顔が微かに見える。

 俄かに周囲がざわついた。医者を呼ぶ声、侍女たちがバタバタと移動する音、色んな音が聞こえてくる。
 だけど、どんなに騒がしい中でも、アーネスト様の声だけが真っ直ぐわたしの耳に届いた。アーネスト様は、今にも消え入りそうな声で、何度も何度もわたしを呼ぶ。


「ごめんなさい、アーネスト様」


 そう言ったつもりだけれど、アーネスト様に聞こえているのかは分からない。
 彼はわたしの胸に顔を埋めていた。温かい。身体が微かに震えている。気のせいかもしれないけど。


「心配掛けて、ごめんなさい」


 アーネスト様は優しい人だから。きっと倒れたのがわたしじゃなくても、こんな風に心配してくださるんだと思う。
 だけど、彼の心は今、間違いなくわたしに向けて注がれている。


「生きた心地がしなかった」


 アーネスト様はそう口にした。ポツリと、他の誰にも聞こえないぐらいの声で、そう呟く。


「このままミーナが目を覚まさないんじゃないかって、すごく怖かった」

「そんなことじゃいけませんよ」


 わたしの声がアーネスト様に届いているのかは分からない。それでも、必死に言葉を紡ぐ。


「わたしは、アーネスト様をお守りするために死に戻って来たんですから」


 だから今後、仮にわたしが命を落としたとしても、アーネスト様は悲しんじゃいけない。
 わたしはただの契約妃。彼を守る駒の一つ。
 それがわたしの存在意義であり、アーネスト様の側に居ても良い理由なのだから。


「違うよ」


 アーネスト様はそう言った。顔を上げ、わたしの手をギュッと握り、真っ直ぐにこちらを見つめている。


「ミーナは俺と――――幸せになるために、ここに戻って来たんだ」


 そう言ってアーネスト様は、わたしの額にそっと口づける。心の中に温かな何かが優しく降り積もっていくような感覚がした。


「今度は俺がミーナを守る。絶対に死なせはしない。生き抜いて、今度こそちゃんと約束を守るから」


 凛と力強いアーネスト様の声に、心が大きく震える。


(わたしはもう、十分に幸せなのに)


 あの日、アーネスト様と再会できただけで幸せだった。一目お会いできた――――それだけで、一生分の幸せを使い果たしたって、そう思った。

 その上、二度目の人生では、彼から契約妃のお役目をいただけた。アーネスト様の役に立てて、こんなにもお側に居られて――――十分すぎる。あり得ないくらい幸せだ。
 それなのに。


(わたしは『求めて』も良いのだろうか)


 ここに居続けることを。契約以外の何かを。

 そう尋ねるだけの勇気を、今はまだ持ち合わせていない。けれど、縋るようにしてわたしを抱き締めるアーネスト様を見つめながら、わたしは密かに涙を流したのだった。