「こ……これは…………」


 ついに――――ついにこの日が来てしまった。今しがた受け取ったばかりの手紙を手に、わたしは一人打ち震える。

 海外から取り寄せたという綺麗な色麻紙に並ぶ、繊細かつ力強い文字。顔をほんの少し近づけるだけで送り手の香水が香り、心臓が大きく跳ねる。


(どうしよう……一体どうしたら…………)


 半ばパニックに陥りつつ、部屋の中をグルグルと歩き回る。けれど、そんなことをしたところで、妙案は一つも浮かんでくれない。


「ミーナ様? 一体如何したので……あぁ、ようやく陛下がお渡りになられるのですね!」


 挙動不審のわたしの表情と、手紙とを交互に見遣り、カミラは大きく手を叩く。


(すごい……エスパー?)


 彼女の言う通り、アーネスト様からの手紙には『今夜そちらに行く』と書かれていた。


「本当にお久しぶりですこと! 気合を入れて準備をせねば」


 そう言ってカミラは、テキパキと指示を飛ばしていく。侍女達にとって、金剛宮にアーネスト様をお迎えすること――――彼がわたしの元に通うのは、大層喜ばしいことらしい。久々に見る活き活きとした表情だ。

 反面、わたしの気分は浮かばない。


(こんなこと、一ヶ月半前までなら何も思わなかったのになぁ)


 以前なら、どんなに間が開いたとしても、アーネスト様が金剛宮に来ることは当たり前だった。先触れのないこともしょっちゅうで。必要以上に身構えることも、怖いと思うことも無かったというのに。


(本当にどうしよう……一体どんな顔をしてアーネスト様にお会いしたら良いの?)


 手紙では平常心を装えても、顔を見たらそうはいかない。感情が駄々洩れになった情けない表情を晒す羽目になりそうで、考えるだけで眩暈がする。
 というか、もしもアーネスト様にあの夜と同じことを尋ねられたら、いよいよ耐えられる気がしない。


(なんて、アーネスト様は全っ然平気なのかもしれないけど)


 もしかしたら彼は、エスメラルダ様達他の妃にもあんな風に『好き』って言わせてるのかもしれない――――そう思うと、ほんの少しだけ頭の中が冷めていく。代わりにモヤモヤが胸を占拠して、わたしは首を横に振った。


(――――特別なことは何も無かった)


 侍女達に身を任せつつ、何度も深呼吸を繰り返す。姿見に映ったわたしは酷く心許ない。


(それじゃ、ダメだ)


 鏡の前に座ったまま、何回も、何十回も同じことを繰り返し、わたしは夜が来るのを待った。



「久しぶりだね、ミーナ」


 部屋に着くなり、アーネスト様はそう口にした。宮殿で出迎えの挨拶をした時にも、同じやり取りをしたというのに、何となく温度感が違う。側にカミラしか居ないからだろうか。何だかむず痒い気持ちになる。


「はい、お久しぶりです」


 そう言ってわたしは微笑む。
 ここまで、意外な程に平常心を保てていた。そりゃあ、アーネスト様と一緒に居るだけで心臓がドキドキするけど、少なくとも挙動不審は免れている――――そう思いたい。


「ありがとう、カミラ。あとはわたしがやるから」

「はい、ミーナ様。ごゆっくりお過ごしください」


 いつものようにお茶の準備をカミラから引き継ぎ、わたしはホッと息を吐く。
 けれどその瞬間、何かがわたしの身体をふわりと包み込んだ。アーネスト様の香を強く感じる。常ならぬ展開に身体を震わせつつ、わたしはそっと後を顧みた。


「アッ……アーネスト様…………」

「ん?」

(ん? じゃありません!)


 そう叫びたくなるのを必死に堪えつつ、わたしはそっと頬を染める。
 背中越しに感じる体温、アーネスト様の逞しい腕。肩口に顔を埋められ、吐息が首元へと吹き掛かる。ゾクリと肌が粟立ち、汗が噴き出た。


「このままじゃ、お茶の準備が出来ません」


 声が情けないほど震えている。折角良い感じに取り繕えていたのに、一瞬で台無しになってしまった。そのことが物凄く悔しい。


「そんなの後で良いから」


 そう言ってアーネスト様は、さっきよりも強くわたしのことを抱き締めた。


(あぁもう! お願いだから勘違いさせないで)


 抱き締められるのなんて、別に初めてじゃない。当たり前……って訳じゃなかったけど、ソファでお休みになる時とか、一緒に眠る時とか、『温もり』を欲している時があるんだろうなって。だから、これまでは戸惑い半分、嬉しさ半分で受け入れてきたんだけれど。


(ダメ! もう無理!)


 何が違うって、わたしの気持ちが違うだけだけど、これ以上は心も身体ももちそうにない。
 今度からスキンシップは別の妃にしてください――――そうお願いしようとしたその時、温かくて柔らかい何かが首筋に触れた。


「ふっ……えぇ!?」


 アーネスト様の唇が、わたしの肌を甘く吸う。心臓が大きく跳ね、身体がハチャメチャに熱くなった。


「アッ……アーネスト様⁉」

「……なに?」

「唇――――当たってます」

「当ててるからね」


 サラリととんでもないことを言われ、わたしは目をギュっと閉じる。


「ミーナが『全然平気』って顔をしていたから」

「……へ?」


 アーネスト様はそう言って、ようやくわたしを解放する。代わりに、茹蛸みたいに真っ赤になったわたしの顔を、上からまじまじと観察した。


「俺はちっとも平気じゃなかったのに」


 切なげに細められた瞳。彼はわたしの頭をポンと撫でた。


『アーネスト様はズルい!』


 反射的に、そんな言葉を叫びそうになる。
 散々『好きだ』と言わせておいて、自分は思わせぶりなことばかり。一方的な想いだって思えたなら、分不相応に彼を求めたりしないのに。


(お願いだから、これ以上惑わせないで)


 わたしの何を差し出しても構わない。見返りなんて要らない。どうかわたしに求めさせないでと、そう強く思う。


「――――お茶をお持ちします。そちらで掛けてお待ちください」


 湧き上がる感情と言葉を全部呑み込み、わたしは必死でそう伝える。


「分かった。待ってる」


 そう言ってアーネスト様は穏やかに微笑んだ。