鼻腔をくすぐる芳ばしい香りに目が覚めた。
薄目を開くと、見えたのは覚えのない高い天井と照明。……うちじゃないな。

どこだっけ、と重い体を起こすのと同じタイミングで、

「起きたか」

と声がかかった。
覚えのあるどころか、馴染みしかない声に慌てて飛び起きると、白いTシャツにスウェット姿の主任がコーヒー片手に部屋に入ってくるところだった。
ということは、えっと、ここは主任の家?

「……あ!」

数珠繋ぎのように、次から次へと昨夜の記憶が戻ってくる。
そうだ、私……。

「婚姻届……出しましたよね?」
「あぁ、出した。覚えてないとか言われたらどうしようかと」

状況を少しずつ噛み砕いては飲み込んでいる私とは対照的に、主任は落ち着いた様子でベッド脇のローテーブルの前に腰掛けた。
黒い天板の小さなテーブル。家具はほとんどモノトーンで統一された、シンプルな部屋だ。

「えっと……昨日、ってか今日か。あのまま泊めてもらったんですよね、私」
「お互い睡魔に負けそうだったからな」
「えっと、主任はどこで」
「……安心しろ。指一本触れてない」

コーヒーを啜りながら、眉間に寄せられたシワ。言葉にせずとも、いつもの表情が答えを言い表している。
うっわ! 上司の家に転がり込んだ挙句、持ち主を差し置いてベッドを占領とか!

「す、すみません……」
「いい。それより、先にシャワー浴びてこい。昨日そのまま寝て、気持ち悪いだろ」
「え、でも、着替えないし」
「服は俺のやつ着ればいい。近くにコンビニあるから、残りは買ってきてやる。今から洗濯回せば、帰る頃には乾くだろ」

ま……まじですか。鬼上司が、わざわざ私のためにコンビニまで行って、あろうことか女性物の下着を買ってきてくれると言うのですか。

「議題は山ほど残ってるんだ。悪びれるより、タスクを消化する最善を選べ」

至れり尽くせり、と言うより尽くさざるを得なくしている状況に慄いていると、いつものような鋭く的確な声が飛んできた。
瞬間、背筋が伸びたのは、情けないほどに身についてしまった癖だ。

「かしこまりました。お代は、後できっちり請求してください」
「……あぁ」

妥協点を汲んでくれたらしい。主任はそれ以上何も言わず、クローゼットの中から綺麗に畳まれたTシャツと短パン、それから大きめのバスタオルを取り出して渡してくれた。
何から何までありがたいと思いつつ、考える。この一連のやりとり、どこからどう見てもフウフのそれじゃないよなぁ……。


目が覚めたのは、お昼を少し過ぎた頃だった。シャワーを浴びながらお腹空いたなぁ、なんて思っていたところに、主任がコンビニ弁当を買ってきてくれた。