突然ですが、契約結婚しました。

いつもの何倍も饒舌な主任は、目に光をいっぱい集めて、まるで小さな子どものように思い出を語る。

「あれが今までの人生で見た一番綺麗な景色やったな」

懐かしむように主任の目が柔らかく細められる。その時誰が隣にいたんですか、なんて野暮な質問が頭に浮かぶけれど、それ以上に主任の大事な記憶を共有してもらえたことが嬉しい。1つ知ったら、今度は2つ知りたい。2つ知ったら、次は私が教えてみたい。

輪郭のぼやけたこの感情を、なんと呼ぶんだろう。行き交う人々から、私達はどんなふうに見えているんだろう。
過去に囚われて雁字搦めになって、その場で足踏みすることしか出来ないでいる自分。ボロボロに傷ついたあの頃から何も成長していない。でも、もしかしたら──

「──タマちゃん」

不意に名前を呼ばれて、私の思考と動きは完全に凍てついた。頭上で響いた聞き慣れない低い声。しかし確かにその声には聞き覚えがあった。
アルコールの巡りとは違うところで脈が早くなるのがわかる。首のあらゆる筋肉がブリキになったような感覚を覚えながら、恐る恐る顔を上げると、ベンチの前には数ヶ月ぶりに顔を合わせる男性の姿があった。

「ジ……ジン、く……」

ぱっちりとした二重にかかる茶髪に、血色の良い唇。スラッとしたスタイルに黒のロングコートはよく似合っていて、どこかのバーで出会った時のことを一瞬にして思い出させる。

「やっぱり。似てる人がいるなぁと思ったんだよね。──あの時と随分雰囲気違うから、確証なかったけど」

ただ1つ、あの時と明確に違うのは、瞳に宿された剥き出しの嫌悪感と敵対心。

「知り合い?」

主任が私の耳元で問いかける。その声は、鼓膜の奥に響く鼓動の音に重なって随分小さく聞こえた。
なんで? どうして、彼がここにいるの。なんで、声かけてきたの。

「あっ、もしかして隣にいるのってタマちゃんの旦那さん? あの時、もうすぐ結婚するって言ってた」

ジンくんはわざとらしいほど明るい声を出し、私と主任とを交互に見た。
何を言えばいい? どう行動すればいい?
何かをしなければならないと理解してはいるのに、頭がちっとも回らない。
せめて何も言わないで。そう願っても、立ちはだかるジンくんの口角は厭に持ち上げられたまま、冷たい視線が容赦なく突き刺さる。

「それとも、また別の代用品なのかなぁ? 俺が婚約者さんのそうだったように」
「それは……っ」

違う。思わずそう叫びかけたけど、言葉は声にならなかった。
だって、何も違わない。私はジンくんとの関係を断つために、彼が今述べた内容を大した罪悪感もなく真のように嘯いたのだ。