突然ですが、契約結婚しました。

早く。速く。最寄り駅から家までの帰路は、駆け足になっていた。


玄関の扉を開くと、土間の定位置に主任の革靴が揃えて置かれていた。リビングの明かりが扉の隙間から漏れ出ている。今朝、私は確かに家の電気を全て消したか確認してから家を出た。

「しゅにん」

上着も脱がずにリビングの扉を開くと、ソファーに腰掛ける背中があった。見覚えのある、恐らく着古して家着になったブランド物のトレーナー。オフモードの主任だ。
蚊の鳴くような声でも届いたのか、背中がゆっくりと振り返る。

「……っ」

電流が走るように視線が絡んで、目の奥のほうが熱くなる。
主任がソファーから立ち上がって、

「すまん!」
「すみませんでした!」

謝罪の言葉は寸分違わず重なった。

え……?
言葉と一緒に下げていた頭を上げると、彼もまた腰を折っていたらしく2人で顔を見合わせる。

「な、なんで主任が謝るんですか」

私の考えているとおりなら、悪いのは私だ。なのに、どうして主任が謝るの。
もしかして……と嫌な予感が広がりかけたところに、主任がぶんぶんと手を振った。

「待て、変な方向で受け取るな。これは、大人気なく家出してたことに対する謝罪で……って、そんな顔するなよ」

目を細めた主任が、少し困ったように笑う。そんな顔って、どんな顔? ミックスジュースのように感情はごちゃ混ぜで、自分が今どんな顔をしているのかわからない。カーテンも閉まっているから、ベランダのガラス窓に私達の姿は映らない。

「謝るのは私の方です。私……主任の気持ちどころか、自分の気持ちすらわかってなくて」
「小澤……?」
「主任がいない家、すごく広くて。1人でも平気だって思ってたのに、寂しかった」

堰が切れて、気持ちは溢れて止まらなかった。
水滴が落ちてコップに水が溜まるように、少しずつ、でも確かに築かれていた私達の関係。いつの間にか、非日常は日常になっていたんだ。この家が、私の居場所なのだと。

「主任が怒った理由……私とおんなじで、この生活を失くしたくないからだって思っていいですか……?」

言い終わるのと同時、大きな温もりに全身が包まれた。ふわりと鼻孔を擽った香りが、初めてこの距離で感じる主任のもので、主任に抱き締められているのだとすぐに理解出来なかった。

「しゅに……」
「アホ」
「へ?」

第一声が罵詈雑言だなんて思わない。思わず間抜けな声を出してしまった私の耳元に、深い溜め息が落とされる。