突然ですが、契約結婚しました。

証明に照らされて、主任の眉間に濃い影が刻まれる。それに気が付いても、私の口は止まらなかった。

「旦那さんとの喧嘩で、しかも喧嘩の原因である主任のところにわざわざ来るなんて、主任が特別な証拠。──奪うチャンスだと思いませんか」

旦那さんから、長年の想い人を奪い去る。現状、それは可能なのではないだろうか。
旦那さんには悪いけれど、実際に主任は穂乃果さんのことが好きなのだ。ずっと、旦那さんが穂乃果さんと出会う前から。他の人と結婚したことに傷ついて、こんな馬鹿げた結婚をするくらいには。

穂乃果さんの気持ちは知らない。女の勘なんてものは当てにならない。だけど穂乃果さんにとって主任が特別な存在なのは火を見るよりも明らかで、真正面からぶつかれば彼女の気持ちが傾いてもおかしくはない。

「あぁでも、主任が穂乃果さんと結ばれればこの結婚の意味がなくなるか。会社への説明だけがちょっと面倒ですねー」

ケトルのお湯が沸騰して、ティーパックを入れたマグカップに注ぎ込む。2つお茶を淹れて、一つをカウンターに置いたタイミングで主任と視線が絡んだ。

「本気で言ってるのか、それ」

久しぶりに見るようにも、初めて見るようにも思える顔。彼の表情は、本気で怒っていた。
怯みそうになるところをぐっと堪える。その手法は、部下時代に身に着けた。

「当たり前じゃないですか。こんな最低な冗談、嘘でも言いません」

私が笑うほどに、主任の表情が厳しくなる。暖房をつけているはずなのに、部屋の気温が下がったように感じた。

「ついこの間、この生活が嫌いじゃないって、お前言っただろ。終わってもいいと思ってるのか」
「確かに居心地はいいですけど、主任と穂乃果さんが結ばれるなら仕方ないなぁと思いますよ」

努めて明るく言った後、数瞬の沈黙が落ちた。視線は絡んだまま、正反対の表情を浮かべて。
沈黙を破ったのは、主任の深い溜息だった。

「……もういい」

低くそう呟いた主任は、一旦自室に戻った後、ダウンコートを手にまたリビングに戻ってきた。
そのまま乱雑に扉を閉めて、家を出て行ってしまう。
湯気が燻るマグカップ。淹れたお茶はカウンターに置かれたまま、飲まれることはなかった。


夜、久しぶりに彼の夢を見た。
夢の中の彼の顔は、いつも朧気に霞んでいる。

『環を1人にしたくないって思った』

なんて、まだそんなことを言うの。
無責任に言葉を与えて、用が済んだら放り出したくせに。大切にしてなんてくれなかったのに。