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名前、呼ぶだけ。
何の感情もいらない。
なのに、どうしてこんなに難しいんだろう。


「俺の名前、そんなに難しい? そんなことないよね。簡単でしょう? 一穂って。言うだけだよ。何も変なことじゃない。それとも、もっと恥ずかしいこと言ってみたくて、俺を煽ってるの? 」


そんなんじゃない。
これ以上、何を恥じればいいの。
結局また、私は裸で見下されてるのに。


「なら、言ってみて。その可愛い声ちょーっと我慢して、碧子さんが今誰にされてるのか言うだけ」


火をつけるだけだ。
頑なに呼ばないのも、違うと首を振るのも。


「な、んで……っ」


何度も聞いた理由を忘れたふりして、そんなこと言うのも。


「俺、嬉しかったんだよ? お願い聞いてくれて、俺といたって投稿してくれて」

「そ、そんな大したことじゃない……」

「そうかな。全世界に晒してんじゃん。どんな関係だろうと……碧子さんがどう思ってようと、男がいるってこと」


大袈裟すぎる表現なのに、うっと詰まる。
嬌声すら一瞬引っ込んだのに、にやりと笑ってまた再開された。


「それに比べたら、こっちの方が大したことじゃなくない? 誰も見てない。俺しか聞いてない。ただ、俺が碧子さんの声で呼ばれたいだけ。可愛いお願いでしょう」


もともとは、大したことないお願いだったかもしれない。
でも、いつまでもぐずぐず抱えていたからか、戸田くんがそんなふうに表現したからか。
今はもう、それがとても大きな意味をもってきたみたいに膨れ上がってる。


「ねえ、碧子さん」


目を逸らすなんて許せないって、頬ごと彼の方へ戻される。


「呼んで。延々このままでいたい? 俺は、それでもいいけどね。きっついけど、碧子さんの気が狂うの見てみたい気もするし」


悪趣味。
たった名前を呼ばないだけで、そんなサディスティックな発想に至るとか、やっぱりそういう性質なんだ。


「その時は、精神崩壊しきるまで絶対許してあげない。何度名前呼ばれたってしーらない。……ほんと、それもいいか。碧子さんが、どんなふうにお願いしてくれるのか楽しみ」


クスッと笑った時も、頬を撫でた時もゾクリとした。
でも、それよりもずっと怖くなったのは。


「……か、ずほ……く……」


――最後通告だっていうように、ふっと瞳に色がなくなった今。


「なーに。今、呼んだ? 」

「よ、んだでしょ……っ」


ぴたっと止んだのは、ほんの僅かな時間。
まだ望みどおりじゃないって、頬を弄んでた指先が胸やより下へと滑っていく。


「ん? そっか。呼んだんだ。戸田くん、って? 」


ああ、その顔。


『あ、の。浪川さん、これ、どうしたらいいですか? 』

『碧子さん、好き……』


どの声も、どの顔とも一致しない、同一人物とは思えない、最早「意地悪」とも言えない声、顔、触れ方。


「え、違った? おかしいな。もう一回言って? ごめんね。今度はちゃんと聞いてる」


精神崩壊。

恐ろしい単語が、優しく執拗に触れられるたび脳内でチカチカする。


「……一穂くん……」

「……っ……」


(……どうしてよ)


名前、呼んだだけでしょ。
大したことないって、言ったの誰?


(私も大概どうかしてる)


ただ名前呼ぶことが、達する引き金になったのを悲しいのか切ないのか、何にしてももやもやして泣きたくなるとか。