今宵、仮初めを卒業したく。

奈津が桐ヶ崎邸に戻ると使用人たちは慌ただしくしており、奈津の姿に気づいて駆け寄ってくる。

「ああ、奥方様、大変でございます」

「どうしたの?」

「旦那様が何者かに襲われて負傷されたようです」

「え……」

事態を飲み込むのに数十秒はかかった。持っていた鞄が自然と手から滑り落ちる。

「成臣さんは?」

「まだ詳細はわかっておりません。先ほど一報が入ったのみでございます」

カタカタと震え出す自分の手をもう片方の手でぎゅっと握る。どうしようと思う前に奈津は声を上げていた。

「私も神戸に向かいます」

「ですが……」

「準備をしてちょうだい」

「はい、承知致しました」

成臣の安否はわからない。けれど奈津はじっと家で待っていることはできなかった。成臣の笑顔を思い出すと鼻の奥がツンとしてくる。「奈津」と優しく呼びかけてくれることも今はもうずいぶん遠いことのようにすら思えて胸がぎゅっとなった。

(襲われたってどういうことだろう?)

奈津は考える。廃刀令は奈津が生まれる前に出ているし、士族の反乱も西南戦争後は穏やかになっている。

(じゃあ外国との戦争?)

それならばもっと世間は大騒ぎのはずだ。新聞にもそのような記事はなかったし、街の雰囲気もいたっていつも通りだった。

(ああ、わからない。とにかく無事でいてください)

神戸に着くのは今日だろうか、明日だろうか、それとももっとかかるのだろうか。時間の感覚すら忘れるほど奈津は成臣の安否を想い、無事を祈り続けた。気を抜くとカタカタと震えそうになる体を両手でぎゅっと抱きしめる。

もしも成臣がいなくなってしまったら……?

そんな不吉なことが頭を過り、奈津は身震いした。もう奈津にとって成臣はなくてはならない存在になっている。それは奈津が自由に勉学に励めるためではない。奈津のよき理解者だからでもない。

(私は成臣さんのことが……好き)

例え仮初めだとしても、この先も夫婦でいたい。成臣が奈津のことを好きだと言ってくれるように、奈津も成臣に好きだと伝えたい。奈津と成臣の"好き"の意味が例え違っていたとしても、それでも奈津は自分の気持ちに気づいてしまったのだ。

(成臣さん、成臣さん!)

心の中で何度も名前を呼びながら自分を鼓舞し、奈津は神戸までの長旅を切り抜けた。