彼は運ばれてきたアイスコーヒーを口に含み、確認するように頷いて、厨房へ笑顔を向けるとわたしに向き直った。
「わたし、のこと?」
うんうんと頷く。さっきまで、ビジネスマンらしい顔つきをしていたのに、急に後輩くんになってしまうととても、とても照れくさいのに。それに、彼に話すようなことなんてなにもない。
「わたしは、特別な話なんて……」
「特別、なんて。そんなのじゃなくていいんです」
「ええ……。ほんとになんにも」
結婚して、仕事をやめて、パートしながら毎日家事して、暮らしてる。それだけなのに。
さっきの吹奏楽部の音が今ごろまた、心の中に響いてきた。それなりにきらきらしてたあの頃。
いまは。なんだろう。毎日を過ごすことで精いっぱいだ。夫に怒られないように。呆れられないように。
背の高いカフェオレグラスの周りに、水滴が無数に生まれている。まるで冷や汗みたいだ。わたしは意味もなくストローで中をくるくる回した。
「だって、先輩の話は全部、特別ですから」
「……え?」
くるくる回るストローがピタリと止まった。氷がカランと揺れる。
「そうでしょう? だって、オレ、先輩に助けてもらったんだから」
真剣な瞳に、記憶が溢れ出した。