「ほんとうに、素敵だった、なにもかも。上月くん。今日は本当にありがとう。演奏会もすごく良かったし、いろいろしてくれて、感謝でいっぱいです」

改めて彼にお礼を言う。彼はさらりとした前髪を照れ臭そうにかきあげて、「先輩が元気出してくれたなら、よかった」と笑った。

「うん。元気でたよ。すごく。家に帰って、夫にきちんと話すよ」
「……どんなこと?」
「うーん。例えば、あんまりきつい言い方しないで、とか。夫婦の役割に、どっちが偉いとか決めないでほしい、とか。そういうこと、かな」

互いに話し合えば、恋愛感情はなくても、仲間にはなれるかもしれない。そんなふうに思ったのだ。誰かが、夫婦は「戦友」だと言っていたことを思い出す。せめて、そうなれれば。

「愛してるって伝えるんじゃないの?」
「……、……それは」

言葉に詰まる。彼は、街灯を反射させてきらきらと煌めく瞳で、答えを待っていた。この目は、わたしの何もかもをあらぬ方向へさらっていこうとする。でも、どきどきするのは、もうやめよう。なにもないままならこのまま、過ごしていける、はずだ。


「それは、わからないけど……」

上月くんは空を仰ぐ。
「……俺、また、振られるんすかね」
「え?」

彼はわたしの頬へと手を伸ばしかけ、そして、口を引き締めると、その手をぎゅっと握り戻した。何かを振り切るように、前を向く。

小さな呟きはため息とともに、街のざわめきに溶けていった。