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「清水さん、行こっか」

 スマホを握りしめたまま、顔を上げると伊原くんが私の席の前に立っていた。
 手にはコンビニ袋を持っていて、壁にかかった時計を見るとちょうど四限目がおわったところだった。

 香乃のことを考えていてお昼休みになっていたことをすっかり忘れていた。


「あ、ごめん! すぐ用意するね!」

 机の横にかけていた鞄の中から、お弁当が入ったトートバッグを取り出す。その中にスマホとお茶のペットボトルを入れて、慌てて立ち上がった。

「晴れてたら中庭のベンチが良かったんだけど、今日雨だしな〜。二階の踊り場と食堂、どっちがいい?」
「うーん、踊り場がいいかな」

 伊原くんと一緒にお昼を過ごすのは初めてで、朝に誘われたときは驚いた。
多分昨日の怪我のことを心配してくれているのだと思う。サッカーボールが当たった額は触れると痛いけれど、赤みも引いたし特に日常に支障はない。

 けれど伊原くんと一緒に過ごせるのは嬉しくて、悩み事を少しの間だけでも忘れられる。

「あれ、意外と人少ないね」

 雨なので二階の踊り場に人が集まっているかと思っていたけれど、数人しかいなかった。

「ソフトクリームを食堂で売り出す日だから、みんなそっち行ってるんじゃねーかな」
「そういえば、六月から週一で売ってるんだっけ」
「食堂で食べきることがルールだから激混みらしいよ。こっちにして正解だったかも」

 隅っこの方に、伊原くんと並んで座る。膝が触れ合うような距離感に、心臓が跳ねた。伊原くんの表情は変わらないので、私ばかり気にしてしまっているみたいで恥ずかしい。膝を少し離すように姿勢を正した。

 お弁当を広げて「いただきます」と手を合わせると、伊原くんがこちら側に傾いてくる。

「うわ、旨そう」

 私の肩と伊原くんの肩が少しだけ触れた。そのことにどぎまぎしながらも、平然を装おう。

「妹の手作りなんだ」

 今日は詩が久しぶりに早起きをして、私とお父さんのお弁当をつくってくれた。
 慣れないことをして疲れたらしく、私が家を出るときには部屋に戻って眠ってしまっていたけれど、照れくさくて直接渡せなかったのかもしれない。

「妹? すごいな、料理するんだ」
「小さい頃からおばあちゃんに教わっていて、得意なんだ」

 だけどおばあちゃんが亡くなってからは、思い出してしまうのが辛いからなのか、料理は全くしなくなった。そんな詩が私とお父さんのために作ってくれたのだ。

 レンコンと人参の煮物をお箸で掴み、口の中へ運ぶ。甘辛い醤油味が中心部まで染み込んでいて、噛めば噛むほど甘みが広がっていく。おばあちゃんが昔作ってくれたものと同じで、懐かしさに顔が綻ぶ。

「よかったら、伊原くんも食べる?」
「いいの?」
「どうぞ!」

 お箸を渡すと、伊原くんはレンコンを掴んで口の中に放り込んだ。数回咀嚼したあと、目を輝かせて「うまっ!」と声を上げる。


「でしょ? 私も大好きな味なの」

 おばあちゃんの味と詩が作った煮物が褒められて、自分のことのように嬉しくなる。

 家に帰ったら、美味しかったって詩とお母さんに伝えよう。
 詩にお願いしたら料理を教えてくれるだろうか。私もおばあちゃんの味を作れるようになりたい。


 伊原くんが持っていたコンビニのパンと私のおかずを交換しあって、お互いの好きな食べ物の話をしていたら、あっという間に完食した。
 食べ終わったお弁当箱をトートバッグに仕舞い、ペットボトルのお茶を飲んで一息つく。


 ——カシャ。
 スマホのカメラで撮影する音がして、硬直した。

 あたりを見回しても、誰が撮ったのかがわからない。女子生徒たちのグループと、男子生徒たちのグループがいるけれど、みんなスマホを持っている。

 けれど、そもそも私と伊原くんを撮っていたのか確証がない。


「ねえ、これ見て」
「うわっ、なにその画像」
「似合わなすぎ」

 笑い声が聞こえてきて、頭の中で反響する。
 視界がぐにゃりと歪んだ気がして、咄嗟に床に手をついた。誰かが喋るたびに無数の白や赤、青の光が見えたり消えたりを繰り返していて、目眩がする。

 誰かわからない人に監視されているなんて、気味が悪い。今もどこかで、私たちを撮影していたのだろうか。

「……っ」

 トートバッグの中から小刻みに振動する音が聞こえて驚倒する。スマホになにか通知が届いたみたいだ。もしかしたらまたあの捨て垢から画像が届いたのかもしれない。


「清水さん」

 大きくて温かい手が私の肩に触れる。それだけで意識が引き戻された。

「顔色悪いけど、大丈夫?」
「あ……うん」
「少し休んでから戻ろっか」

 伊原くんは追及することもなく、優しく微笑んでくれた。
 彼にとんとんとリズムよく背中を軽く叩かれて、浅くなっていた呼吸が整っていく。伝わる熱が波立っていた感情を鎮めてくれる。目眩も治り、いつのまにか視界は澄んでいた。

「……ありがとう」

 背中から伊原くんの手が離れる。名残惜しくて縋り付くように視線で追うと、伊原くんは察してくれたのか、私の手をそっと掴んでくれた。
 伊原くんの温かさに安堵して肩の力が抜けていく。


「最近、なにかあった?」

 どんな反応をされるかわからなくて怖い。でももう抱え込んでいるのは限界なのだと先ほどの出来事で痛感した。気にさせたくないからと黙っていたけれど、隠しきれなくて心配をかけてしまうくらいなら、全部打ち明けた方がいい。

「……誰かに、盗撮されてるみたいで」

 私の手を握っている伊原くんの力が強くなる。

「清水さんのストーカーがいるってこと?」

 初めて聞くような低く苛立ちを含んだ声で、赤い光が見えた。多分伊原くんは誤解している。

 ストーカーといえば、そうなのかもしれないけれど、おそらくは伊原くんが想像しているような人ではない。


「これ、見てほしいんだけど……」

 口で説明するよりも見せた方が早いかもしれないと、スマホを取り出す。先ほどの通知はお知らせで捨て垢からのメッセージではなかった。そのことに胸を撫で下ろす。

 SNSのアプリを開き、届いた捨て垢からの画像やメッセージを伊原くんに見せていく。次第に伊原くんの眉間にシワが深く刻まれ、表情が歪む。


「ごめん。こんなことされてたなんて気づかなかった」
「え、いや伊原くんのせいじゃないよ!」

 ただ画像が送りつけられてくるだけなので、耐え切れると思っていた。だけど誰かに常に見られているというのは、精神的に負荷がかかり息苦しくなる。

「このアカウントの持ち主が、俺と清水さんのことを見張ってるってことか」

 口には出さないけれど、伊原くんは申し訳なさそうにしていて、自分が原因なのではないかと思っているようだった。


「伊原くんはなにも悪くないよ」
「いやでも、犯人がどういう意図なのかわからないけど、俺のせいの場合もあるから」

 伊原くんはいろんな女子から好意を向けられているし、今までも告白されてきたはず。だからその中に、こういった行動をとる人がいるのかもしれない。でもまだ断言できるほどの証拠もない。

「これから俺も気をつけて周囲を見ておく。だから、なにかあったらすぐに相談して」

 頷くと、伊原くんの表情がほんの少しだけ緩む。きっと私を安心させようとしてくれているのだ。

 伊原くんがくれる言葉はいつも誠実で真っ直ぐだ。今も本当に心配してくれているのが伝わってくる。

 そんな彼と接していると後ろめたさを感じてしまう。伊原くんに嘘をついているわけではない。けれど、隠していることがある。


「他にもなにか不安なことある?」
「え……」

 私の様子から悟ったみたいだった。けれど、このまま誤魔化して話さないでおくこともできる。

 でも、伊原くんにはいずれ話しておきたいと思っていた。それが今日になるとは予想外だったけれど、今を逃したら話す勇気が出ないかもしれない。


「……もう一つ、話さなくちゃいけないことがあるの」

 目眩がしたのは盗撮されているかもしれないという不安からだけではなかった。精神的に負荷がかかっているのはそれ以外の問題もある。
 私に未だに見えている周囲の人たちの感情の光。


「——私、光感覚症なんだ」

 今までのことを知られたら、伊原くんはどう思うだろう。嘘が筒抜けで、それで想いに気づいてしまったなんて知ったら、不快かもしれない。
 だけど、私に真摯に接してくれる彼に隠し事をしていたくない。

「光感覚症?」

 聞き慣れない言葉のようで伊原くんは首を傾げる。

「人の感情が色になって見えるんだ」

 私はブックマークをしていた光感覚症のページを伊原くんに見せる。

「たとえば嘘をついたときに白く光って見えたり、怒っていると赤く光って見えたりするんだけど……」
「つまりそれって周りの人の感情が清水さんに伝わってるってこと?」
「……うん」
「これ、もう一度読んでいい?」

 伊原くんはスマホの画面に書いてある光感覚症についての説明を一通り読むと、戸惑いを隠せない様子で目を伏せた。


「こういうのがあるって知らなかった」
「……ずるくて、ごめん」

 故意ではなくても、私は人の気持ちを覗くようなことをしてしまっていた。嘘も、隠した怒りや悲しみも私には見えてしまう。
 いつ治るのかもわからない症状で、そんな相手と付き合っていくことは、伊原くんにとって複雑かもしれない。

「なんでずるいの?」
「え、だって」

 思わぬ言葉が返ってきて、狼狽える。


「伊原くんの言葉に嘘がないかどうかとか、ずっと見えてて……私のこと友達って言ったときも、嘘だってわかっちゃったし……」

 伊原くんは口をぽかんと開けて、そのまま手で顔覆う。

「あー……なるほど。そういうことかぁ」
「ごめんなさい」

 あのとき私に嘘が見えていなかったら、伊原くんに想いを伝えようって勇気が出なかった。そう考えると、やっぱりずるいことをしてしまったようにも思えてしまう。

「いや、謝ることじゃないじゃん」

 覆っていた手を退けて、伊原くんと目が合う。いつもよりも血色がいい気がする。

「光感覚症のおかげで、俺の気持ちに気づいたってことだし、筒抜けだったのかって知って恥ずかしいだけだから!」
「そう、なの?」
「俺の気持ちバレバレだったんだなーとか、自分の言動思い出して羞恥心がやばいだけ……」

 私のことを気遣ってくれているのかもしれないと、真意を探るように見つめていると耳や首まで赤くなっていることに気づいた。ふっと笑いが漏れてしまう。

 先ほどまで重たかった気持ちを、伊原くんはあっという間に軽くしてくれる。


「私、人見知りで……だけどすぐに打ち解けられたのは、伊原くんの社交性のおかげもあったけど、光感覚症だったことも大きい気がするんだ」

いろんな人の嘘が見えて、ショックを受けることも多かった。けれど、伊原くんの言葉には嘘が見えなくて、人として惹かれたのだ。


「清水さんが光感覚症じゃなかったら、打ち解けるまでに時間がかかっていたかもしれないってこと?」
「うん、多分」
「俺に対してなかなか心を開けなったとしても、もっと時間をかけて仲良くなれるように努力したよ。だからずるいとかそういうの気にする必要ないって」

 屈託のない伊原くんの笑顔に、私の視界が滲んでいく。


「なんで……」
「ん?」
「なんで、そんなに優しいの」

 いつも伊原くんは私の言葉一つひとつを受け止めてくれて、沈んでいきそうな私の心を引っ張り上げてくれる。

「俺は別に優しい人間なんかじゃないよ」

 伊原くんは困ったような、歯痒そうな表情を見せる。


「怒ることだってあるし、機嫌が悪くなるときだってある。でも、大事な人には言葉を尽くしたいだけ」

 無条件に誰にでも優しい人の言葉よりも、大事な人に優しく接してくれるという言葉の方が信じられる。それに彼の言う大事な人の中に、私も入っているのだとわかり、心が温かくなった。


「けどこれから先、お互いの意見が食い違うことだってあると思うし、そういうときは、遠慮して話を合わせるとかもあんまりしてほしくはない」
「私も。……思いやりは大事だけど、飲み込んでばかりだと不満が溜まっていくから」

 私は今まで香乃に嫌われたくなくて、言葉を飲み込みすぎてしまっていた。一時的に穏便に過ごせていたけれど、結局私の中に溜まった不満が膨れ上がっていってしまった。


「悩みごと全部を話さなきゃいけないわけじゃないし、お互いのことで不満とか不安があるときは話していこう」
「うん!」


 傷つけないために気を遣うことも時には必要だけど、全肯定なんてしてくれなくてもいい。甘やかすだけの関係よりも、お互いを尊重しあえる関係でいたい。
 たとえこの先、光感覚症が治って嘘が見えなくなったとしても、大事なことを言葉にしてくれる伊原くんだからこそ信じられる。

「もしかしてSNSをやめようか悩んでたのって、盗撮が原因?」
「それもあるんだけど……SNS上での人間関係にも疲れてて……」

 香乃の投稿を見てしまったショックも大きいけれど、アプリを開いて周りの人たちの投稿を確認していいねを押すというのが、義務みたいになっているときがある。もちろん楽しいときもあるし、SNSをやっていたからこそ繋がれた人たちだっている。


「アオハルリセットはしたくないって言ってたもんな」
「……うん。なるべくなら、関係を消したりするのは避けたいなって」
「俺は関係がしんどいならリセットも必要だと思う。でも清水さんの中で、リセットしたくないって思いがあるなら、他のやり方を考えた方がいいのかもしれないな。たとえば、SNSを日常の中心に置くことからやめてみるとか」


 学校にいても、家にいても、SNSは生活の中心にある。周囲の子たちの日常や、流行、世の中のニュースなど、SNSを開けば様々な情報が入ってくる。


「私、SNSに依存してるのかな」

 常に手放せないほどのめり込んではいないと思っていた。
 だけど、たったひとつのアプリに振り回されて疲弊している。

 必ず毎日周りの投稿を見なければ置いていかれると勝手に思い込んでいた。
 でも伊原くんや千世、クラスの子たちとの関係に、SNSが必ずしも必要なのかといえばそうではない。

「……少し離れてみる」
「それもアリだと思う。自分が見たいときに自由に見たらいいよ」

 いきなりやめるとかではなく、SNSに触れる時間を減らしていきたい。自分の生活の中で大きな存在だったけれど、それを改善することができたら今のような心の消費も減っていくかもしれない。