好きな人がいます

その日の夕方、私は、また仕事帰りの部長に声を掛ける。

昼の出来事なんて、何もなかったように。

そう、なかったことにしてしまえたらいいのに。

「部長! 今日はお寿司が食べたいです。一緒に行きましょ」

けれど……

「そういうことは、婚約者に言いなさい。例え、上司でも、他の男と出かけるのは、婚約者にしてみればいい気はしない」

いつもなら、優しく微笑んで「回ってるとこでもいいか?」って聞くのに。

「婚約者じゃありません。私はちゃんと断ってます。父が伝えてくれないだけで……」

言ってて、自分の間違いに気づいた。

そう、私、自分で断ってない。

断るのがめんどくさくなって、諦めたままだ。

私は、ちゃんと昼に泣いて泣き尽くしたはずなのに、また涙が込み上げてくる。

なんで、分かってくれないんだろう。

私が好きなのは部長なのに。

「社長が断らないってことは、この結婚は社長の意向なんだろ? だったら、余計に俺が邪魔するわけにはいかない」

なんでよ!
邪魔してよ!
俺の綾愛だって言ってよ。
あいつには渡さないって言ってよ。

そんなことは無理だって分かってても、ついわがままが出ちゃう。

「……私の気持ちはどうでもいいんですか? 私は父の言うなりに、好きでもない人と結婚しなきゃいけないんですか?」

ついに堪えきれなくなった私は、道の真ん中で涙をこぼした。

「綾愛さん……」

俯く私の目に、微かに動く部長の手が映った。

私に手を伸ばそうとしてためらうそんな動き。

「私は……、私が好きなのは……」

私が最後の勇気を振り絞って言おうとした時、ためらっていた部長の手が動いた。

俯く私のうなじに手を添えて、その胸に抱き寄せる。

部長?

鼻を啜り上げた瞬間、胸いっぱいに部長の匂いが広がる。

あ、ダメだ!
このままじゃ、涙でよれたファンデーションでスーツを汚しちゃう。

私は、慌てて部長から離れようと後ずさるけれど、意外にもしっかりと抱きとめられていて、離れられない。

「いいから。分かってるから。他のやつに、君の泣き顔を見せたくない。落ち着くまで、このままで」

どういうこと?

分からないながらも、私は動きを止める。

「いつも天真爛漫な君の笑顔は、いつも俺を癒してくれる。でも、その笑顔は俺だけに向けられてるわけじゃない。みんなのものだ」

えっ?

部長が何を言いたいのか分からないけれど、胸から直接響いてくるその声が心地よくて、私は聴き入ってしまう。

「でも、君の泣き顔は、俺だけのものであってほしい。俺の前では、君は無理に笑わなくていい。泣いても怒ってもいい。俺はそんな存在でいられたら嬉しいと思う。だから、しばらくこのままで」

それって、どういう……?

「ふぅ……、自分の気持ちくらい、抑えられると思ってたんだけどな」

部長の気持ち?

「好きだよ、あやめ。ずっと、好きだった」

驚いた私は、部長の腕の中で、ぶんっと顔を上げた。