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 ―二千十七年八月―

「この人があなたの婚約者よ」

 母から差し出されたお見合い写真。
 写真を開くと、高級ブランドのスーツを着用した男性が写っていた。

 きちんと整えられた髪。黒縁眼鏡をかけているが凛とした眼差し。美男子ではないがいかにもセレブな男性という雰囲気。

 以前、三田正史《みたまさし》とは企業のパーティーで一度逢ったことがある。三田ホールディングス(旧三田財閥)の創業家の御曹司。三田銀行の次期代表取締役社長と有望視されている。

 三十二歳、アメリカの有名大学を卒業したエリートだ。

 中西美梨《なかにしみり》よりも八歳年上。パーティーの席で三田正史が美梨を見初め、親同士が決めた政略結婚。三田ホールディングスと繋がりを持てば、学校法人桃華学園の未来は約束されたようなものだから。

「正史さんは勉学と仕事にとても熱心で、今まで女性とのご縁はなかったみたいよ。お見合いは全てお断りになっていたのに、あなたとの婚約には承諾されているの。こんな光栄なことはなくてよ」

 (女性との縁はなかった?)

 それは建前に決まっている。
 三十二歳の男性が女性を知らないはずはない。三田ホールディングスの御曹司にすり寄る女性は山ほどいるはずだ。

「嘘ばっかり」

 美梨は写真を閉じ、ポンとテーブルの上に投げる。

「美梨、そんな態度はよしなさい。あなたはこの桃華学園の後継者なのよ。いずれ桃華学園の理事長になるの。三田正史さんと結婚すれば、いずれは三田ホールディングスの創業家の嫁になれるのだから、一生安泰よ」

「私はまだ二十四歳だよ。まだ婚約とか結婚とか、考えられない」

「もう二十四歳でしょう。就職もしないで遊んでいられるのは誰のおかげだと思ってるの? 社交界でも通用するマナーを教育してきたのは全てこの日のため。正史さんがあなたを見初めたのよ。あなたとの婚約を是非にとおっしゃられてるの。女性にご縁のなかった正史さんが初めて女性を見初めたと、三田ホールディングスの会長様が大喜びでね。美梨、このお話を進めてもいいわね」

「勝手にすれば? どうせ私に拒否権はないでしょう」

「お利口だこと。ではこのお話は進めるわね」

「話はそれだけ? もう行っていい? 私、友達と約束があるの」

「友達? 男性でないのなら外出してもいいわよ。結婚前に男性とふしだらな行為だけはしないでね。傷でもついたら、せっかくの良縁が流れてしまうから」

「はいはい。バージンでいればいいんでしょう」

「美梨、はしたない言葉を使わないで。外出するなら私の車を使いなさい。田中に送らせます」

「結構よ、バイクで行くから」

「美梨、女性がバイクだなんてはしたない」

 母親は顔を真っ赤にして激怒した。
 美梨が何を言っても、何を話しても母親は全て『はしたない』の一言だ。

 (女性がバイクを乗って何がいけないの?
 母の秘書に送迎させ、私を監視させるつもりであることくらいわかっている。誰がその手にのるものですか。)

 美梨はリビングを出て自分の部屋に戻り、バイクのキーを掴んだ。

 高級ブランドのワンピースからジーンズに履き替え、黒い皮ジャンを着る。階段を駆け降り、裏口から出て車庫に向かった。

「お嬢様、お出掛けですか? そのお召し物は……もしかしてバイクですか? 行き先はどちらへ? ご帰宅のお時間は?」

 車庫にいた母親の秘書の田中ローザと出くわす。田中は秘書兼美梨の教育係で、アメリカ人の父を持ち日本人の母を持つハーフで、英語は堪能で母以上に厳しい教育係でもあった。母親の命令により美梨の動向を常に見張っている。だから母親以上に口煩い。

「ちょっとだけ走らせてくるわ。気分がスカッとするのよ。それくらいいいでしょう」

「すぐにご帰宅ですね? お気をつけて行ってらっしゃいませ」

 美梨は白いフルフェースのヘルメットを被り、愛車のナナハンに跨がった。

 キーを差し込みエンジンを吹かし、広い敷地を抜けると、屋敷の門は自動で開いた。

 風を切りバイクを走らせていると、嫌なことも自分の置かれた立場も、全部忘れることが出来た。