ソファーに投げ出してあったコーディガンを羽織りリビングを出る。
あの日リョウが外したドアレバーは新しいものに取り換えられたが、規格が合わず、空いた隙間はシールのようなもので埋められている。

冷えた廊下を歩いてエレベーターに向かう途中、401号室の前を通る。
そこは、リョウがいなくなって数ヶ月後に若い女性が入居していた。
何度か挨拶をしたものの返事はもらえず、そのうち声をかけなくなった。
少し固い洗面台の蛇口も、私がうっかりつけたフローリングの傷も、今は彼女とともにある。

外は闇の中で糸雨が降っていて、街灯も薄ぼんやりとしている。
それもさっきより小降りになっていた。

本当は薄々わかっていた。
リョウがときどき寝込んでいたことも、着実にやつれていたことも、リョウの身体からほんの少し抗生物質の匂いがしていたことも。

雨は止み、雲間から遠慮がちに月が姿を見せた。
半月と満月の間くらいのふっくりとした月は、澄んだ空の中でとてもきれいだ。

こんな風に月を眺めたのは、いつ以来だろうか。
リョウの隣でしか世界がうつくしく見えなかった。
リョウと出会ってからの私は、月よりも彼の耳の形を、花よりも切り揃えられた髪の毛のラインを愛した。
私がうつくしいと思っていた骨ばった首元や、肉づきの薄い腕が、病気ゆえのものだったとしても。

『そろそろ月からお迎えが来るから』

晴れ男のリョウは、雨の降らない月に帰ったのだろう。

一緒に生きることも、一緒に死ぬこともしてくれず、例え来世があったとしても、きっと会いに来てはくれない。
そういうヤツだ。
ただ、彼にとっては貴重だったはずの時間を私と過ごした。
単なる気まぐれだったかもしれないけど、それで十分だと思うことにする。

リョウに忠実な空は、私の代わりに泣くこともしてくれない。
でも、そうだね。
あのひとの訃報には、すすり泣くような雨夜ではなく、不敵に笑う月夜が似合う。

小皿ほどの水たまりに月光が降りていて、私は合皮のパンプスでそれを踏みつけた。
パシャッと小さく音を立てて、月が砕け散る。

私も約束を守ろう。
明日も普通に起きて、普通に仕事して、普通にご飯食べて、普通にお風呂入って、普通に寝る。
これからもずっと。

見上げると、月は変わらぬ姿でそこにあった。

光のような金色の髪。
右肩だけずり落ちた黒いジップアップフーディー。
スニーカーを少し擦りながら月面を歩くリョウの姿が見える。




end.