足音だけでわかる。
ゆったり歩くスニーカーのかすかに擦る音は、揺らめく焔を思わせる。

愛梨と別れて帰ったマンションの前、数m後ろでその足音は聞こえた。

こんな日に限って、と考えて、リョウはいつだって最悪のタイミングを外さないヤツだと思い出した。

エントランスに続く階段を上ると、すぐ後ろをその足音がついてくる。

「おかえり、ミクちゃん」

エレベーター前で、ネイビーのコートがすぐ隣に並んだ。
ドアの隙間から風が入り込み、コートの裾がめくれる。

やってきたエレベーターに乗り込み、すぐに「閉」のボタンを押したのに、リョウは焦ることなくドアをすり抜けた。
背後で、壁に寄りかかる音がする。

「今日来る?」

あの日以来、差さった鍵は無視していて、そんなことはリョウだってわかっているはずなのに、まるで「いつも通り」だった。
私にとって大事なことも、リョウにとっては寝たら忘れるような程度のものなのだろうか。

エレベーターのノロノロとしたスピードがもどかしい。
リョウのいる空間で、私は冷静でいられた試しがない。

視線を向けなくたって、全身の毛細血管までもがリョウを意識している。
そして、どんなに隠してもそのことをリョウは知っている。
知っていると、私も知っている。
だからいつだって居心地が悪い。

四階に着くなり、「開」のボタンを強く押す。

「行かない。もう行かない」

言い捨てて、半分も開いていないドアを押し退けるようにエレベーターを降りた。
私は足早にリョウの部屋を素通りしようとした。

コンビニのレジ袋が床に投げ出されて、私は一瞬そちらに気を取られた。
その瞬間、伸びてきた手が腕を掴む。
細くて長くて白い指は、見た目と違って男性の大きさと強さを持っている。
この手に馴染んだ私の身体は、振りほどくことなどできない。
だからせめて目だけは合わせないように、袋からはみ出したペットボトルを見つめていた。

「おいで」

からかうわけでも誘惑するわけでもなく、それが私を操る呪文であるかのようにリョウは言った。

もう一方の手が後頭部に添えられ、指が髪の内側に入り込む。
冷えた耳にかかる手が熱く感じられた。

「いや。行かない」

いつもなら簡単に流された。
この時だってそうしたかった。
でも、ここで頑張らないといけない気がして、私は必死に下を向いたまま首を横に振った。