「今日はありがとうございました」

雨は降らなかった。すっかり日の落ちた住宅街はしずかで、風もない。

マンションの前まで送ってもらい、私は車を降りた。

「森近さん」

箕輪さんも車から降りて、少し緊張した面持ちで私の前に立つ。

「またお誘いしてもいいですか?」

見上げると、箕輪さんははにかむように笑った。

「よかったら、これからもお会いしたくて。考えていただけませんか?」

真っ白な画用紙の上をするすると鉛筆の線が伸びていく。
くすぐったく跳ねる心臓に手を添えた。

「わかりました。ちゃんと考えます」

箕輪さんは三日月のように目を細めた。
目尻の皺がやさしい。つられて私も微笑んだ。

それはかすかな音だった。
コンビニのレジ袋も、ゴム底のスニーカーも、さほど大きな音はしない。
しかし、近づいてくるその音に、私の心臓は手の下で縮み上がった。

通りに投げ出された車のライトに、闇から溶け出したような黒のジップアップフーディーと、光のような金髪が浮かび上がる。
中に着ているTシャツは白で、テディベアの写真がモノクロでプリントされていた。
リョウは、私たちに一瞥もくれることなく、隣を通りすぎてエントランスに入って行った。

「じゃあ、また」

箕輪さんは笑顔で運転席に戻り、手を振りながら帰っていく。
私は、同じような笑顔を返すことができなかった。

エントランスには、エレベーターの階数表示を見上げるリョウがいた。
やはり私のことは見ないまま、やってきたエレベーターに乗り込む。
そして、いつものように奥の壁に背を預けて、ぼうっと宙を見上げていた。

悪いことをしたわけでもないのに、吐きそうなほど胃が苦しい。
重い足取りでエレベーターに乗り、「4」と「閉」を押した。

エレベーターは、いつもより遅く感じた。
空間が歪んでいる。
空気中の成分バランスまで狂ったように、意識しないと酸素が入ってこない。

頭の中は必要のない言い訳ばかりがめぐっていた。
リョウが今何を考えているのか知りたい。
心臓を取り出しても、脳を切り開いてもわからないなら、どうしたらわかるのだろう。

四階について、リョウはいつもと変わらないスピードで私の横をすり抜けてエレベーターを降りる。
パンツのポケットから取り出した鍵をドアに差し込んだ。
アクリルのウサギが揺れ、鈴のチリンという音がする。

「リョウ」

たまらず呼び掛けると、リョウは振り返って、ん? と首をかしげる。
元々口角の上がった唇の形だから、微笑んでいるのか無表情なのか、私には判断できなかった。
リョウの描く線は不規則で不明瞭で、書いたそばから溶けて消える。

何も言わない私を促すこともせず、リョウは今度こそ不敵に笑って、ドアの向こうに消えた。
けれど、内側から鍵をかける音はしなかった。