夜の間降っていた雨は、夜明け前に止んだ。
予報では午後から晴れるらしい。

珍しく誘われたと思ったら、理由は車目当てだった。
リョウは私の軽自動車の助手席に乗って、釣り堀までの道を示す。
小一時間走って隣町まで行き、すれ違いもできないほどの山道を進んで、こぢんまりとした釣り堀に着いたときには、見事な晴天が広がっていた。

リョウは黒のジップアップフーディーに黒いキャップ、首筋を守るためにタオルを巻いて小さな堀に釣り糸を垂れる。

「その格好、暑くない?」

「日焼けするとすぐ真っ赤になるんだよね、俺」

「軟弱者め」

そういう私も、肌を露出している方がヒリヒリと痛いので、フード付きタオルをすっぽり被って蒸し暑さに耐えていた。

「なかなか釣れないね」

「シーズン始まってだいぶ経ったから」

ときどき寄ってくるイワナも、満腹なのか食いついてくれない。
ただ日焼けしにきたような時間に、私は何度目かのため息をつく。

「なんで釣りなの?」

「ミクちゃんにハジメテを提供したくて」

わざといやらしい言い方をして視線を流してくるリョウを、釣り糸を見ることで無視した。

わざわざこんなことをしなくても“ハジメテ”なんてリョウからたくさん教えられている。
リョウに向く感情のすべて、自分の中に溢れる葛藤や嫌悪やもっと曖昧なすべては、これまで知らなかったものばかりだ。
知りたくなかったものはかりだ。

深い緑の山の上に、痛いほどの青空が広がっている。
鳥と虫の鳴き声。
緑と土の香りを含む風。
水の流れる音。

「のどかだなぁ」

「たまに日光に当たらないとね」

「リョウはいつも暇なんだから、勝手に来ればいいじゃない」

「車ない」

「そうだったね」

リョウがかつて何の仕事をしていたのか知らないけれど、言葉の端々から想像するに、一年程度という期限つきでこちらの支社に異動してきたらしい。
そして、その途中で辞めた。
日がな一日、リョウが何をしているのか、私は知らない。

「来た」

リョウが立ち上がって竿を引く。
大きくしなった竿をさらに引っ張ると、重そうなイワナが跳ねていた。
糸をたぐって掴み、針を抜いてバケツに入れる。

「結構大きいね」

「食べごたえありそうだな」

丸めた餌を針先に付けて、リョウはまた水面に向けて糸を放つ。
しばらくして、リョウはまた一匹釣り上げた。

「ミクちゃんさ、餌食べられてない?」

「餌?」

リョウに言われて竿を持ち上げてみると、針先には何もなかった。
いつの間に。

「貸して。付けてあげる」

私は素直に竿をリョウに渡した。
白っぽい粘土みたいな餌を丸めて針に刺す。
元々日焼けしにくく基本的に引きこもりのリョウの手は、この場に似合わないほど白くて、指先だけがほんのりとピンク色をしていた。