リョウが「リョウタ」なのか「リョウスケ」なのか、それとも全然違う本名があるのか、私は知らなかった。
年齢も連絡先も知らない。
会社員だったらしいけれど、いつどんな理由で辞めたのか知らない。
リョウはずっと「リョウ」で、それだけで事足りた。

「ねぇミクちゃん」

結局私はリョウの部屋のソファーにいて、最後の抵抗とばかりに不機嫌な態度を取っていた。
リョウが作ったハンバーグはちゃんと火が通っているけれど、焦げて固い。
多めのソースで苦味を誤魔化しながら食べ進めた。

「ねぇ、ミクちゃん」

からかいを含んだ声は、わざと吐息混じりに耳に注がれた。
意志とは無関係に身体が跳ね、そのかすかな反応にリョウの笑みは深くなる。
こういうときほどヤツは、曇りのない天真爛漫な笑顔を見せる。

教えた「ミク」という名前は本名ではないのに、ヤツはその名を呼ぶだけで、私を意のままに動かすことができた。

しぶしぶふり向くと、その笑顔は長い睫毛の一本一本まで見えるほど近くにあった。
見つめていると、睫毛はどんどん近づいてくる。

「……近いよ」

「近づかなきゃキスできないじゃん」

そう言って私の手からお皿と箸を奪ってテーブルに置くと、指三本分離れたところで目を閉じる。

「ミクちゃん、キスしていいよ」

そう言った吐息はあたたかく私の唇に届いた。
ゆったりとやわらかく口角の上がった唇は、軽く合わされて私を待つ。
そこに触れたらどうなるか、私は嫌というほどよく知っている。

私は視線をリョウから逸らし、箕輪さんの笑顔を思い浮かべた。

冷静になれ。
冷静になれ。

そう唱えても、身体の芯はヤツの思い通りに脈動した。

「ほらほら、早く」

リョウは薄く目を開いて、硬い指先で私の唇に触れる。
身体の奥から込み上げる何かがため息となって出てきそうで、私は根性でそれを押し返した。
唇を内側に入れて、キュッと固く閉ざす。

「頑固だなぁ」

リョウは閉ざしたままの私の唇に口づけた。
その一撃で箕輪さんの笑顔は吹き飛んだけれど、頭の片隅に残った誠実そうな気配で耐えた。

でもそれが限界。
二度目のキスで唇は緩み、三度目で受け入れた。
誠実が指の間をこぼれ落ちて消える。

でも、だってあれは、まだ始まってもいないことだし。
何の返事もしてないし。

軽く瞼を持ち上げると、満足そうに笑うリョウと目が合う。

何が頑固だ。
容易い女だと思っているくせに。

私の首筋でリョウの唇が笑む形に動いた。
身体はリョウの言いなりなので、せめて目だけは必死で睨み返す。

「ミクちゃん、ソースの味」

見下ろすリョウは、また曇りのない笑顔を見せていた。


おだやかな心音でリョウは寝息を立てている。
薄く開いた唇に触れると、揃った前歯が覗く。
しっかりと見える喉仏は確かに男性のものなのに、シャープなフェイスラインと細い首筋にはどこか儚さがあった。

うつくしいものなら他にいくらでもあるけれど、睫毛の反り具合や、後頭部の丸みや、耳から肩にかけてのラインは「リョウ」としか言い様のないフォルムで、その形でしか満たされない何かがある。

ラジオのノイズ音のような雨音がしていた。

雨になりたい。
リョウの肩を濡らして、ザマーミロと言いながら消えられたらいいのに。