クラブ展を三日後にひかえて、いつもは比較的静かな美術室が活気づいていた。
 場所を提供してくれる書店に作品を運び込む段取りや、受付の最終確認。──ギャラリーへの入場はフリーだけれど、授業のない放課後と休日は部員がふたり一組で受付をすることになっていた。お客様の生の反応を見たり、アンケートをお願いしたりして……。
 二年生を中心に、いろんなことを話し合っていたときだった。
 ダン! と、ドアが開いた。
 ただならない物音に、飛び交っていた会話がふっと途切れ、美術室中の目がドアに向いた。私の視線も。
 目に映ったのは、柊子だった。ドアにつかまるように立って、目をいっぱいに開き、唇を震わせている柊子。
 なぜ柊子がそんな様子で美術室に──理由を考える前に、私は柊子に駆け寄っていた。美術部員の視線から柊子を隠すようにドアの向こうへと押しやり、後ろ手にドアを閉めた。
 とにかく校舎を出て、丘に続く坂道が始まる手前まで歩いたところで、柊子は泣き出した。理由がわからない私は、ただおろおろと柊子を近くの木陰に連れて行き、その手にハンカチを握らせる。
「……ありが……」
 お礼の言葉が声にならない。
 何があったんだろう、柊子がこんなふうに泣くなんて。
 柊子は、今日は朝からはしゃいでいた。体育祭の実行委員会で、川崎さんとペアを組めて、放課後ふたりきりでプログラムの表紙候補を決めるんだ、って。全校生徒に募集をかけて集まった表紙イラスト、全部で五十枚くらいあって、それを委員会までに十作品に絞るんだ、って。
 そうして、まさに放課後の今、柊子は川崎さんとその楽しい作業をしている時間のはずで……。
 どきっ、とした。──まさか、川崎さんと何かあった?
「……どうしたの?」
 ためらったけど、思い切って口にする。
「あんな人とは思わなかった」
 柊子は吐き棄てた。あんな人──やっぱり、川崎さんと何かがあったんだろうか? 何か、とても嫌なことが。
 柊子は、何もないところをきつく見つめ、鼻をすすると、ひとこと、ひとこと、切るようにして話し始めた。
「私、今日、川崎さんと表紙、選ぶの、すごく楽しみにしてて……ふたりでいろいろ、話、できて、嬉しくて……でも、美雨のこと、あんな……」
「──私?」
 心の底から驚いて、私は柊子を遮るように聞き返していた。美雨、って、私? なぜ、私?
「オトコ、いるのに、他の男に手を出すな──って」
 とっさに何を言われたのかわからなかった。次の瞬間、体がカッと熱くなった。何、それ。
「サッカー部の一年の……浅羽拓南とかいうやつのカノジョ、知ってる? ──って聞くから……ああ、美雨のことだな、って頷いて……そしたら、その浅羽のカノジョが、川崎さんの友達に手を出してるって、言い出して」
 私が? 川崎さんの友達に?
「カレシいるくせに、その川崎さんの友達もカノジョいるヒトなのに、って。私……私、びっくりして『その子は私の友達です。中学からずっと知ってます。カノジョって言われているけど、浅羽と仲がいいのは親戚だからです。ヘンなこと言わないでください』って言ったんだけど、そしたら……」
 大きく息を吸って、柊子はハンカチを握りしめる。
「最初、驚いたみたいだったけど……友達にも内緒でこそこそやってるわけだ、とか……本人がいないのに、カッコつけて庇うことない、とか……開き直ったみたいに言い出して……私、カチンときちゃって……」
 柊子はきゅっと唇を引き結んだ。そして、また、ハンカチで顔をおおう。
 何か言わなきゃ、と私は焦った。慰める、とか、励ます、とか。でも、川崎さんの友達って、その友達のカノジョって。
 ふたりの人の顔が浮かぶ。藤枝さんと佐倉先輩。ふたりはつきあってはいないはずだけど。カレとカノジョじゃないはずだけど。
 川崎さんが破った写真も心に浮かぶ。ふたつに裂かれた一方には川崎さん、もう一方には佐倉先輩と藤枝さん。あのとき感じた疑問がもう一度心を揺らす。あれは、偶然? それとも……。
「ごめんね、美雨。ハンカチ、洗って返すよ」
 柊子の涙声にハッとする。あわてて首を左右に振った。
「そんなこと……それより、私こそ、何だか、私のことで、柊子に……」
 続ける言葉に迷い、私は、
「ごめん」
 と、思い切り頭を下げる。
 よく知らない人の中傷なんかたいしたことない。陰で何か言われるのは結構慣れている。それよりも、好きな人とケンカさせて、柊子に済まない気持ちで胸がいっぱいになる。
 だけど、心の底にちょっと嬉しい気持ちもある。相手は好きな人なのに反論して、私を守ろうとしてくれた柊子。
 しばらく頭を下げたあと顔を上げると、目にいっぱい涙を残したまま、柊子はカラリとした笑いを浮かべて見せた。
「いいの。私、陰口って嫌いじゃん? 川崎さんが人の陰口を言うような人だなんて思ってなくてさ……たとえ、どんな理由があったとしても、ね。それが悔しかっただけだから。男を見る目、なかったのかなあ、私……」
 最後は冗談めかして、柊子は丁寧にハンカチで涙を拭き取り始める。
 けれど、平気なフリはちょっとも続かなかった。汚れた頬が、ひくっ、と動き、あわてて伏せた面から涙が、ぽた、と地面に落ちた。
「ごめんね、美雨」
 もう涙を拭おうともせずに、柊子は私に謝った。繰り返し、繰り返し、何度も。
「ごめんね、ごめん。私、それでも……それでも、やっぱり、あの人が好きだ……」