意識を取り戻すと真っ白なカーテンに囲まれたベッドに寝かされていた。

 息苦しいと思っていたらどうやら鼻に詰め物がされているようで、視界の下方に見てとれる。

「あれ?」

「あら、起きた?」

 シャァァとカーテンを開けながら入って来たのは学園の保健師の先生だ。

 白衣を着ていても隠しきれないそのスタイルのよさと泣き黒子が色っぽいお顔やその仕草から男子生徒に絶大な人気を誇るらしい。

「貴女、集会中に意識を失って血相を変えた雄大君にお姫様抱っこで運び込まれたのよ」

 お姫様抱っこで雄大様に運ばれる姿を想像して身悶える。

「あのいつも冷静沈着な雄大君が、あんなに慌てさせるなんて貴女凄いわね」

 どうやら鼻血は止まったらしく詰め物を取り外しても出血はなかった。 
      
「しかしその制服は駄目ね、すっかり血がついてスプラッタ映画みたいになってるわ、さぁこれに着替えて保健室にある水道で顔を洗っていらっしゃい」

 私サイズのジャージを渡されカーテンの中で着替える。

「洗面用具は自由に使って良いからね。それじゃ、私は雄大君に亜紀子さんが目を覚ましたって伝えてくるわね」

 ウインクをすると保健師の先生は保健室から出て行ってしまった。

 慌てて顔を洗う。 化粧落とすためのクレンジングオイルや洗顔フォームがあるため崩れた化粧も取り去る。

 化粧治しも出来ないのだから崩れた化粧をみられるくらいならまだ素っぴんの方が幾分ましかもしれない。

 雄大様に……私は義兄様に甘えすぎていたのかもしれない。

 いくら男性としてお慕いしていても、血が繋がっていなくても、私は彼と結ばれることは無いのである。

 実子と養子の結婚は私が暮らすこの国では認められていないのだ。

 悪役令嬢はヒロインとヒーローが結ばれたなら潔く颯爽と幕をおろす。

 それが悪役令嬢を目指した私にできる義兄様への恩返し。

 兄離れを決意していると、それからあまり間をおかず義兄様が保健室にやって来た。

 私の顔を見るなりホッと表情を緩める。

 危うく見惚れかけて慌てて頭をふり、思考を切り替える。

 兄離れすると決めたじゃない、しっかりするのよ亜紀子!

「良かった、体調はどう?」

「もうすっかり大丈夫ですわ、ご心配をおかけしました」

 ペコリと頭を下げれば優しい手が伸ばされる。

 この手にいつまでもすがり付いてはいけないのだ……慌ててその手を避けて頭をさげる。 

「あの……っ、私は九条院の名に相応しくない行いを……申し訳ありません」 

 自分の失態で義兄様に恥をかかせてしまった。

 失恋した私にはこの優しい義兄様に合わせる顔など無い。
 
「申し訳あ……、あり……ま……せん」

 ぶわっと溢れだした涙を義兄様にみられたくなくてベッドから飛び下り保健室から逃げ出す。

 失恋がこんなに辛いなんて知らなかった。

 途中何人もの生徒とすれ違ったけれどそんなこと気にする余裕なんてなかった。

 義兄様から逃げたいばかりに校舎内を走り回り、外靴が保管してある玄関へ向かうべく、廊下の角を曲がろうとして誰かに見てぶつかりよろめいた。

「きゃっ!」

「危ない!」

 バランスを崩した身体が大きな手に支えられ引き寄せられる。

 頬に当たる逞しい胸元からは義兄様の爽やかなコロンの香りとは違うムスク系の香りがする。

「すまない、人が居るとは気付かずに大丈夫か……君はたしか……」

 低く耳障りが良い声に顔をあげれば何度か義兄様と一緒に居る所をみたことがある青年だ。

 短く刈り上げられた髪とワイルドな出で立ちで学園でも人気ある青年だったはずだが、あいにく名前がおもいだせない。
  
 なんにしてもレディがいつまでもこうして異性に密着するなどはしたない。

「助けていただきありがとうございました」

「亜紀子……」 
 
 離れようとしたところで背後から低く怒りを滲ませた声で名を呼ばれ反射的に飛び上がる。

 普段の甘さを含んだ大好きな声ではなくまるで竦み上がるほどの冷たさを感じさせる声に呼ばれ振り替えれば、義兄が綺麗な笑顔のまま仁王さまのように怒っている。

 ヒイィィィ! こんなに怒らせるような失態をしてしまったのか私は。

 無意識に目の前の青年の制服のジャケットにすがり付けば、更に義兄様の凄みが増した。

「はぁ、雄大……亜紀子嬢が怯えてるぞ?」

 頭上から聞こえてきた声に我に返り、無意識に握り絞めていた制服を放すと義兄様が怖くてつい青年の背後に隠れてしまった。

「翔(かける)、いつから亜紀子と?」

 地鳴りでもするんじゃないかと感じるほどの怒気に竦み上がる。

「おい、俺は今さっき転びかけた彼女を助けただけだぜ」

「ふぅん? それにしては随分と仲良さげにくっついてたよね……」

 たらたらと冷や汗が流れ落ちる。

 逃げよう、このままここにいたら不味い気がする。

「翔様、お助けいただきありがとうございました。 さようなら!」

「おっ、おい!?」

 脱兎のごとく走り出した私に焦ったように翔様が声をかけてきたがそれどころではない。

 なんとか靴を履き替え、学園を飛び出したものの、暫くして財布が入った鞄を教室に忘れてきたことを思い出した。

 しかも必死で走ったせいで見覚えがない路地裏へ入り込んでしまったらしい。

「ここどこよ……」

 疲れはてた身体は重く、動きの鈍った足は些細な段差に引っ掛かり派手に転んでしまった。

 咄嗟に身体を庇った両手は擦り傷となってところどころ血がにじんでいる。

 膝も擦りむいたのか運動着のズボンに穴が開いてしまった。

 じんじんと脈打つ痺れるような痛みが右足にはしる。

 段々と腫れ始めた右足を庇うようにして地面に座りこむ。

 捻ったのかもしれない。

 どうして私はこんなにダメダメなのだろうか。

 九条家に恥ずかしくない令嬢に、そして義兄様に……雄大様に嫌われたくなくて頑張ってきた筈だけど、何をやっても上手くいかない。

「残念令嬢……」

 誰かが言っていた言葉を思い出す。

 悪役令嬢を目指してきたけれど、残念令嬢のほうが私にはお似合いだろう。

 家に帰りたくても、足の痛みは酷くなる一方でもう移動する気力すらない。 

 膝を抱き抱えるようにして地面に座り込んでいたら、不意に声をかけられた。  

「あれぇ? こんなところで何してるの?」

 聞き覚えがない声に顔を上げれば口や耳に複数のピアスを着け、髪を赤や青といった色に染めた軽薄そうか男性五名に私は取り囲まれていた。
 
「もしかして怪我してるんじゃない? 俺らが介抱してやるよ」

「お礼は身体で払って貰おうかなぁ」

 ニヤニヤとよってくる男たちから逃れるように両手で自分の身体を抱き込む。

 怖い、怖い怖い怖い怖い、誰か助けて……誰か……義兄様……

 私に向かって迫る男たちの手に無意識に助けを求める相手に気が付き、自嘲する。

「結局、兄離れ出来てないじゃない」

 伸ばされた手を叩き落とす。

「触らないで汚らわしい」

 こんな男たちの慰み者になどなったら兄離れどころか二度と義兄に会うわけにはいかない。

 実際には残念令嬢だとしても、私の目標は独立不羈 (どくりつふき)の、孤高の悪役令嬢。

 他者からの束縛を受け付けず、制御されることなく、気高く強くどんな逆光でも自信の信念を貫き通す。
 
「あぁ!? なんだとこのアマ」

 運動着の胸元を掴まれ建物に背中を押し付けられるように無理やり立たされる。  
  
 キッ! と睨み付ける。

 なによこんな下品な男、義兄様に比べれば月とすっぽんじゃない!

 本気で怒った義兄様と比べれば何てことはない。

 ブンッと振りかぶり相手の頬に右手を張る。

「放せと言っているのです! 私の言葉がわかりませんか? こんな簡単な言葉すら理解できない獣は動物園に帰りなさい!」

「このっ、優しくしてりゃぁ付け上がりやがって! おいっ、こいつ回すぞ!」

 力いっぱい振り回され投げ棄てられ身体が地面に叩き付けられる。

 痛い痛い痛い! でも決して泣いてなどやるもんか!

 痛みに起き上がれなくても、足掻いてやる。

 絶対に好き勝手なんてさせないんだから!

「何をしているのかな?」

 騒然とした状況に冷たい声が響く。

「あ~あ、お前らなんつぅことを……」

 聞き覚えがある声が男たちの後ろから聞こえ、顔を上げる。

「なんだお前、部外者は引っ込んでろ!」

「私は彼女の保護者でね、返してもらおう」

「はっ? そんなひょろひょろした身体で俺たちにケンカ売ろうってかしかもたった二人で?」

 リーダーっぽい男の言葉に仲間達が嘲笑う。

「弱い犬ほどよく吠える」

「ぬかせ! やっちまえ!」

 馬鹿にするように笑った義兄様に怒りに顔を歪ませて男が殴りかかった。

「義兄様! 危ない!」

「だぁ、始めやがった」

 同時にその仲間達が一緒にいた翔様へと殴りかかる。

「優男、お前の相手はこの俺だ! そのむかつく面潰してやるよ」

 男から繰り出される鋭い拳を軌道を反らすように翔様がいなしていく。  

「暴力沙汰はごめんなんだがなっと」

「自業自得だ、それに気にするな、こちらは正当防衛だしいくらでも揉み消してやるさ」    

 二人目を地面に沈めながら義兄様が不敵に、楽しげに微笑んだ。

「揉み消すくらい俺の家でもできるわ、厄介事に俺を巻き込むなっての」

 翔様も二人目を沈める。

「凄い……」

 五対二という圧倒的な戦力差をものともせずに倒してしまった。

「亜紀子、遅くなってすまなかった」

 私の近くにやって来ると制服が汚れるのも厭わずに両手を広げて待つ義兄様に手を伸ばした。

「遅い!」

「ごめんごめん」

 それなりに体重もあるはずなのに何の苦もなく私の身体を抱き上げる。

「無事でよかった」

「うぅぅぅう、こっ……怖かったぁぁぁあ」

 子供のように泣きじゃくる私の背中を落ち着かせるようにポンポンと優しく叩く。

 どうやら色々有りすぎてねてしまったのだろう。

 気が付けば私は病院のベッドに寝かされていた。 
 
 部屋の外から微かに人の声がしている。

 ベッドから起き上がり処置が施されているが鈍い痛みを訴える足を引きずるように扉へと近づけば、声の主が義兄様とお父様であることがわかった。

「君がついていながら亜紀子に怪我をさせるなんて」

「申し訳ありません」

 父様の叱責に良いわけひとつすることもなく謝罪する義兄様の声に私は病室の白い引き戸を勢い良くあける。

「義兄様は何も悪くないわ!」

「亜紀子、寝ていなくちゃ駄目だろう」

 飛び出したものの、思わず痛めた右足を踏みしめてしまいバランスを崩した私を義兄様がすかさず抱き止める。

 そのまま膝の裏に手を回す感じで抱き上げられると優しく窘(たしな)め、義兄様は少し離れた場所に設置してあった車椅子まで移動するとゆっくりと私を座らせ、車椅子を押しながらお父様の所までもどった。 

「先程説明させて頂きましたが、一連の騒動は学園内での特定の生徒に対するいじめと傷害、恐喝が原因です」

 私の頭上で真面目な顔で話す義兄様とお父様の顔を見上げる。

 イケメンはどの角度から見ても整っているのだなとあらためて感心しながらも、真剣なふたりの会話に割り込むのはしてはならないことはわかる。

 しばらく黙って聞いていたのだが、次第に頭の芯がボゥと痺れてきて考えが纏まらない。

 怪我をしたことで熱が出てきたのかくらくらする。

「あぁ、そちらは任せる、うちの愛娘に濡れ衣を着せて断罪するなど万死に値するからな」

「わかりました、それから例のお話しですが考えておいてください」

 義兄様の言葉にお父様は苦虫でも噛み潰したような顔で呻いている。

「ぐぬぬぬぅ……致し方あるまい、不本意だが、宝を他所の害虫に囓られるより遥かにましだからな……」 

「言質は取りましたからね、さぁ亜紀子部屋へ戻ろう。 熱が出てる」

 額に置かれた義兄様の手がひんやりとしていて気持ちいい。

 ベッドに横になれば義兄様が柔らかくさわり心地が良い。

 熱に浮かされながら、こちらを心配そうに覗き込む義兄様の……雄大様を見上げる。

 ふわふわ、ふわふわする意識は夢と現実を曖昧にしていく。

 あぁ、幸せだなぁ。夢でもいい、雄大様を独り占めしているんだもの。

 にへにへしている私の頭を大きな手が優しく撫でる。

 その手を掴まえて頬に当てるようにしてすり寄ると雄大様の手がびっくりと動きを止めた。

「亜紀子?」

「えへへっ、ゆうだいさまだーいすき」

 夢の中でならこの禁断の恋を伝えても良いよね?

 限界を越えたらしく幸せな夢は途切れてしまった。 あぁ、ざんねん……。

「反則だよ亜紀子……」

 それから二日入院し、怪我は全治一週間との診断を受けた。

 雄大様はあれから忙しくしているようで顔を合わせることができずにいる。

 学園を休んで自宅での療養に専念して、屋敷内なら自力で歩けるようになったある日、庭を散策中に屋敷に勤めているメイド達がヒソヒソと話をしているのが聞こえてきた。

「……雄大様……」  

 聞こえてきた大好きな人の名前にこそこそと私の腰ほどの高さがある生け垣の茂みに隠れるようにしてしゃがみこむ。

「まさか雄大様との養子縁組を解消されるなんて、旦那様は一体この九条院家をどうなさるおつもりなのかしら」

「さぁねぇ、私たちのような凡人にはわかるわけがないわよ」

「しかもお嬢様のご婚約も決まったらしいわよ。この恋愛結婚が主流の時代に家同士の婚姻を結ばされるなんて、上流階級は大変ね」

「見ず知らずの男性に嫁ぐとか私無理~」

「ほんとにね、お嬢様かわいそー」

 若いメイド達の雑談は現れたメイド長によって終わりを余儀なくされた。

「ほらほら、さっさと仕事に戻りなさい!」

「はーい!」

 元気のよい返事と共に遠ざかるメイド達の話が頭のなかでぐるぐると繰り返される。

 聞き覚えがない情報が多すぎて混乱する頭と痛いほどに脈打つ心臓を抑えようとシワになることも失念して胸元のブラウスを握りしめる。

 自分の婚約はまだ良い、いや良くはないけれど九条家の娘に産まれたからにはいつかは政略結婚させられるだろう覚悟はしていた。

 九条家には雄大様という立派な後継ぎがいるし、大好きな彼の助けになるならば政略結婚だって厭わない。

 たとえ恋人になれなくても家族として雄大様の側にいられると思っていた。

 それなのに養子縁組解消されるなんて聞いてない!

 混乱が怒りにシフトチェンジしたところでおもむろに立ち上がった。

 ひとりで悩んでなんとかできるなんて思っていない。

 聞いた話はあくまでもメイド達のくだらない噂じゃない!

 だって私は残念令嬢……思い浮かばないなら聞けば良いのだ。

 自分の屋敷を睨み付ける。

 そろそろお父様がお帰りになる時間だわ、徹底追求してあげるんだから!

 貴婦人らしいおしとやかさなどかなぐり捨てて、走りにくいスカートを掴み上げて屋敷へ道なき道を走る。
 
 途中で枝に服が引っ掛かったり、整えた髪に天然の装飾品(葉っぱ)がプラスされ迫力が増したことでしょう。

「お嬢様!?」

 そんな私の令嬢なしからぬ姿に目を向いたメイド長に駆け寄る。

「お父様は!?」

「だっ、旦那様でしたら執務室へ」

 そんな私の勢いに気圧されたのかメイド長は一歩後ろへ足を引いた。

「執務室ね!」

 そのまま身体を反転し来た道を戻りだす。執務室への最短ルートは中庭を突っ切り厨房の勝手口から侵入してそこから一番近い階段を駆け上がること。

「あっ、お嬢様!? お待ちください!」

 慌てて追いかけてこようとしたメイド長を巻くように久しぶりに逃げる、義兄様が養子にいらっしゃる前はあれしろ、これしろと口煩いメイド長からよく逃げたものだ。

 悪役令嬢のように気品と優雅さを兼ね備えた完璧令嬢になるためには走るなんてしてはいけないと自制していたけれど、今にして思えば義兄様やお父様に誉めてほしいと言う理由で、「そのままの亜紀子で良いんだよ」と二人に諭されてもなかば意地で悪役令嬢を目指した。

 完璧令嬢である必要なんてないのである。

 だって頑張った結果が残念令嬢なのだから私は胸を張って残念令嬢と名乗れば良いのだ。

 開き直ってしまえば先程までうつうつモヤモヤしていた気分がスッキリする。

「残念令嬢らしく人生最大の我が儘を要求してやるんだから!」

「お父様!」
 
 鼻息あらく執務室へ駆け込めば、執務室の中にはお父様と執事の藤堂、それから特に親しい相手にしか使用しない執務室の応接テーブルには久しぶりにお顔を拝見した雄大様の実父西條大地(さいじょうだいち)叔父様がいた。

「亜紀子!?」

「あら大地叔父様お久しぶりですございます」

 取り繕ってお父様を無視して挨拶をすれば、雄大様そっくりな笑顔を向けてくれる。

「ふふふっ、久しぶりだね。 亜紀子ちゃんは相変わらず元気ですね」

「ええ、それだけが取り柄ですからオホホホホッ」

 にこやかに挨拶を交わせばお父様が頭を抱えている。

「お父様! 雄大様が九条院家の養子縁組を解消されるなんて一体どういうおつもりですの!?」

 お客様の前でこのようなお話をするのは立派な令嬢ならすべきではありませんが、わたくしは残念令嬢ですことよ!

「はぁぁぁぁ、箝口令を敷いていてはずなのに一体誰だ亜紀子に漏らした無能は……」

「メイド達がたまたま話していたのに出くわしただけですわ」

 胸を反らせふんぞり返る。

「とりあえず座りなさい、雄大君がいないのに、このまま執務室を追い出せばどのように暴走するかわかったもんじゃない」

 どっと疲れたようなお父様の指示で私は空いていた席の一つに腰を下ろす。

 すかさず有能執事の藤堂が私の前に湯気が立つ紅茶の入った白磁のティーカップと菓子を用意して出してくれた。

「すまないな大地、しばらくおとなしかったんだが猛獣使いがいないとすぐにこれだよ」

 項垂れた父様のじとっとした恨めしげな視線を無視して目の前に可愛らしく配置された色とりどりのマカロンに手を伸ばし頬張る。
   
「そうみたいだね、それでもうバレてるみたいだけど良いのかい?」

「あぁ、どうせ近々には話をしなければならなかったしな」

 バリバリと頭を掻いたせいで、オールバックに撫で付けられた髪が乱れてしまっている。

「亜紀子、もう聞いているかも知れないが雄大君は西條家の籍に戻る」

 お父様の言葉に頷く。西條家にもどるとか知らない情報だったけれどもせっかくお父様が自発的に情報開示してくれているのだから全て知っていますと言う態度で頷く。

「ちなみに雄大君からの希望だし、私の希望に叶った提案だったので許可した以上だ」

 もっと情報を引き出せると思っていた出端をくじかれて咀嚼中のマカロンにむせ込む。

「兄さん、それは説明になってないと思うよ」

「そうか?」 
 
 大地叔父様にフォローされお父様が首をかしげた。

「私はその理由をきかせていただきたいのです!」

「いや、それは雄大君に口止めされているし、私の口からは言いたくない」

 問い詰めれば大人げなくへそを曲げてしまったようで私と視線を合わせようとしない。

 こうなったお父様の頑固さは知っているため私はもう一人の獲物に標的を変えた。

「大地叔父様もご存知なのでしょう!?」 

「うん、もちろん知ってるよ」

 少し間延びしたように返事をする大地叔父様に詰め寄る。

「おしえてくださいまし!」

「ダメ」

 即答で拒否が帰ってきた。

「おしえ」

「ダメ」

「せめてヒント」

「ダメ」

 全く取り次ぐ暇もない拒絶に涙が浮かんでくる。

「亜紀子ちゃん、君がその質問をぶつけるべき相手は誰だろうね?」

 その言葉に俯く。

 理由を聞きたくても、私がいま一番話したい相手は全然屋敷に帰ってきてくれないのだ。

「お義兄様です……」

「そうだね。 雄大は今頃九条院家の自室にいると思うよ」
  
 その一言に勢い良く大地叔父様の顔を見る。

「行ってあの自己中男に君の素直な気持ちをぶつけておいで」

「はい!」

 元気良く返事をして私は執務室を飛び出した。

 上がった息も整えず、扉にノックすらせずに駆け込めば、制服のジャケットを脱いでいた雄大様が驚いたようにこちらを振り返った。

「お義兄様ー!?」

 ここで逃がしてなるものかと勢いそのままに恥も外聞も淑女も全て投げ捨ててその逞しい胸板に飛び付いた。

「うわっ! 亜紀子!?」

 勢いが良すぎたのか衝撃を受け止めきれなかった雄大様と一緒に毛足が長いカーペットが敷かれた床へ倒れ込む。

 気がつけば私を庇うように胸に抱いて床に仰向けに寝そべった雄大様の上から押し倒したような格好になっていた。

「痛っ、怪我はない?」

 あったら言ってやりたいこと、聞きたいことが山ほどあったのに、雄大様の笑顔をみたら全てが吹っ飛んでしまい、残ったのはただひとつ。

「お慕いしております……」  

 あとからあとから涙が湧いてきて止まらない。

「捨てないで……」

 寂しい悲しい辛い温かい離れたくない。

 ぐるぐると繰り返される沢山の感情の渦に訳がわからなくなる。

 薄い男らしい唇へ自分の唇を寄せていく。

 軽く触れるだけの口づけをして離れれば後頭部に回った何かに押し戻され、再び唇があわさる。

 唇を啄むような繰り返されるバードキス。

「にっ……」

 唇を開けばヌルリと雄大様の舌が口のなかに侵入して私の舌をからめとった。

 経験したことがない激しい大人のキスにどこで息を吸えば良いのかわからずに、息も絶え絶えに翻弄され、いつの間に体勢を入れ替えたのか気がつけば朦朧とした意識で雄大様の顔を見上げていた。

「どうしたのかな俺のお姫様は?」

「ううううぅ……居なくなっちゃやだぁああ!」

「うん? 居なくならないけど」

「ふぇ?」

 さも当然と言う様にあっけらかんと告げられて涙が引っ込んだ。

「だって、養子縁組を解消したって……」

「うん、西條雄大に戻ったよ」

 あぁ、メイド達の話は本当だったのだと心にずっしりと落胆がのし掛かる。
 
 晴れ晴れとした様に告げられてそれほどまでに厭われていたのかとショックが拭えない。

「これで堂々と気持ちを伝える事が出来ると思ってたんだけど、亜紀子に先を越されてしまったな」

 涙を拭われて額に優しいキスが降ってくる。

「本当はもっと雰囲気がいい場所でと思ってたんだけど、うまくいかないな……九条院亜紀子さん、私と結婚して下さい」

 その大切な言葉に赤面し色々と限界を迎え、返事をせずに意識を飛ばした私はやっぱり残念令嬢だろう。

 あとから聞かされた話だがメイド達の話していた私の婚約のお相手は西條雄大様だった。

 養子縁組を解消したのは跡継ぎになるのではなく、九条院家に……私の婿養子になるためだったと聞かされて恥ずかしさに悶えた。

 ひとりで大騒ぎした自分が恥ずかしい。

 どうやら雄大様を含め、生徒会や風紀委員も含めて愛桜嬢へ対する傷害未遂事件の再調査がなされたらしく、犯人は生徒会長へ思慕を募らせていた生徒会役員の女子生徒だったことが判明したらしい。

 加害者の女子生徒の両親が愛桜嬢とその御両親へ謝罪し示談金を支払い女子生徒の退学で警察への被害届は取り下げられた。

 これをもって私の無実が証明された訳だけど、雄大様の怒りは治まらず…… 

「えっ!? 生徒会解散ですか」

 高級ソファーに雄大様とくっつく様に隣り合わせで座り二人でティータイムを楽しんでいたところで知らされた情報に顔をひきつらせる。

「そうだよ、今回は学生だった事もありこの程度で丸く収まったけど、生徒会の役員達は実家である財閥や大企業の跡取りばかりだ」

 先日の告白騒ぎから自重する事をやめたそうでこちらがたじたじになるほどに甘やかしてくれる雄大様に肩を抱かれる。

「事実確認や事前調査などの基本的な事が出来ていないと各家の保護者に判断されたみたいでね、再教育のために生徒会なんてお遊びをさせている余裕はないってさ」

「それで解散ですか? 前代未聞ですね」

 国会の議員解散はたまに聞くけれど任期を待たずに生徒会が解散するなんて。

「来春には社会に出るんだ、私も含めて愚者に社員の命運を任せられないからな」

 手に持っていたティーカップをテーブルに戻し、自嘲気味に呟く雄大様の両頬を挟むように手を添える。

「雄大様は愚者なんかじゃありませんわ!」

 驚きに見開かれた茶色い瞳を覗き込む。

「この九条院家の跡取りは自他共に認める残念令嬢のこの私ですよ、雄大様が居なければ九条院家なんて代替わりしたとたんにペッシャンコに潰されてしまいますわ」

 自信満々に胸を張れば雄大様の額が、私の胸元に押し付けられるようにしてうつ向いてしまった。  

 目の前の旋毛が可愛くてついついその柔らかな髪を撫でる。

「私が惚れ込んだ男が愚者なわけありませんわ! 雄大様が愚者になりそうになったら私が全力で止めて見せますね」
 
 そうだ、ハリセンと言うあまり痛みを伴わない折檻道具をテレビのお笑い番組で使っておりましたわね、などと考えていれば身体が後ろへ倒された。

「期待しているよ」

 にっこり微笑んだ雄大様に唇を奪われ息も絶え絶えになりながらでもそれ以上進もうとしない雄大様は律儀にお父様との約束を守ってくれている。

 私が、学園を卒業してその……雄大様とけっ、結婚するまで清い関係でいることらしい。

 でもお父様! この日に日に大人の色気を発していく雄大様相手に私の心臓は持つのでしょうか。


 完