悪役令嬢と言う職業をご存じだろうか。

 本屋さんに行けば、書棚ではなく平積みにされている人気作品の小説や漫画本に飛び交う悪役令嬢の文字とイケメン揃いなヒーローを侍らせる気の強そうな女主人公が極彩色なイラストで表紙を飾っているのである。

「兄様! どうしたら亜紀子(あきこ)は悪役令嬢になれますか?」

 文武両道、容姿端麗な二つ歳の離れた兄の雄大(ゆうだい)を見上げるように首をかしげる。 

「うーん、悪役令嬢が何かいまいち俺には分からないけど、悪役はともかく、我が九条院家の家名に恥じないようなレディーになれないと令嬢は名乗れないんじゃないかな?」

 そうか、悪役の前に立派なご令嬢にならなくちゃだめなのか。

「なら私は頑張って素敵なレディになりますね!」

「そうか、じゃあお兄様は亜紀子が立派なレディになれるように協力しないとね」

 私の小さな手のひらより大きく優しい手が何度も頭を撫でてくれるのが嬉しくて、私は頑張った。

 お母様は私が産まれてすぐになくなっており、正直立派なレディがどの様な者なのかわからない。

 なのでお兄様にレディがどの様なものなのかおしえてもらうことにしたのだ。
 
 お兄様に分からないところを教えてもらってお勉強を頑張った!

「亜紀子、テストの点数は満点なのにどうして自分の名前を書くのを忘れちゃったのかな?」

 採点の丸がいっぱいのテストは無情にも名無しのせいでゼロ点になってしまった。

「次はちゃんと名前書くもん!」

 ぷぅっと頬を膨らませ唇を尖らせて不満であると示すと、兄様はキラキラしい笑顔でお菓子をくれる。

「ほら機嫌治して? 亜紀子の好きなショコラだよ? はいあ~ん」

「あーん」

 ショコラを摘まんだ兄様が口許に運んでくれたので口を開くとショコラの芳醇な香りと滑らかな舌触り、上品な甘味に身悶える。

「兄様もあーん!」

 この幸せを是非とも兄様にもお裾分けしなくてはならない!
 
 兄様の唇にショコラを押し付ければアムッと指ごと食べられた。

「ふふっ、亜紀子に食べさせて貰うと美味しいねありがとう」  

 そうでしょう、そうでしょう! ならまた食べさせてあげなくちゃ!

 テストの失敗も忘れて兄様の口にせっせとショコラを運ぶのが楽しい。

「兄様……ちゃんと名前を書いたのにゼロ点になっちゃった」

 わんわん泣きながら返されたばかりのテストを見せれば私を軽々と抱き上げた兄様が涙をハンカチでぬぐってくれた。

「どれどれ?……あちゃー、一列答えをずらしちゃったんだね」

 なでなでと頭を撫でながら慰めてくれる兄様大好きです。

「今度はちゃんと確認するもん!」

 悪役令嬢になるためにがんばるんだから!

 兄様は完璧だ! 宿題を教えてくれるし、忘れ物の筆箱も体操着も水着も届けてくれる優しい兄様は私の自慢なのだ。

 兄様と同じ学校に進学したくて頑張った。

 高校生になった私は、休み時間に兄様が知らない女の人と歩いている姿を見つけてしまったのだ。

 何回も袖を通して色褪せた服を着ていることから彼女が庶民だと推測できる。

 兄様をとられたようで胸のなかがぐるぐるとして気持ち悪い。

「はっ! きっと彼女はヒロインなんだわ! 私は兄様がヒロインと添い遂げられるように悪役令嬢のように二人の仲を邪魔しながらくっつけなくてはいけないのですわ!」

 胸のぐるぐるが何か分からないまま謎の使命感に燃え私は頑張った。

 兄様が連れてきた女の人の靴に蛙を入れようと思って、捕まえるためにお庭の川に行って転んでしまったけどちゃんと一匹捕まえてきた。

 飼育ケースに入れて蓋を閉めて寝たはずなのに、翌朝目が覚めたら脱走した蛙が目の前にいて悲鳴を上げて、兄様に助けてもらう。

 むぅぅ、もう一回! 

 校舎の窓から階下で花壇の手入れをしているヒロインを見つけてたのでバケツに水を入れてかけてやることにした。

「もう少し入れられますわね」

 バケツの縁ギリギリまで水をくみ持ち上げれば余りの重さに全身がプルプルと痙攣する。

「おーほほほっ! これをヒロインに……うぎゃ!?」

 慎重に慎重に運んできた水とこの水を浴びたヒロインの無様な姿を想像して、廊下の色が変わっていることに気がつかなかった私は廊下のワックスに足をとられてお尻から転んでしまい盛大に水を被ってしまい全身びしょ濡れになってしまった。 

 どうやら誰かが兄様を呼んできてくれたらしく、保健室に連れていかれ兄様の大きなジャージを貸してもらい着替える。

「……可愛い……」

 小さく兄様が何か呟いたけど聞き取り損ねた。

 色々な人に聞いて回ったらどうやらヒロインは兄様のクラスメイトらしく、図々しくも右隣の席らしい。

 なんとも羨ましい! しかし、席がわかっているならば嫌がらせは簡単だわ。   

「先生、わたくし体調が優れませんので保健室に行って参ります」

 授業中に教室を抜け出した私は兄様のクラスへ急ぐ。

 今の時間兄様のクラスは体育の授業で教室に居ないことは確認済みだ。

 辺りを見回して誰もいない事を確認し、教室の後ろ側から侵入し、急いで兄様の右隣の机から筆箱を取り出すと中に入っていたシャープペンから全て芯を抜き取り嫌がらせをする。

 授業が終わるチャイムの音に焦って慌てて教室から逃げようとしたけれど沢山の上級生が向かってくる気配に慌てて教室の窓から見える木に飛び移った。

 なんとか現行犯は間逃れたわ!

 本日の授業はあと一時間、さぁヒロインさん、シャープペンが使えなくて困るといいのですわ!  

 太い幹に身を隠しながら先程まで私がいた教室の様子をうかがい見る。

 ヒロインは兄様の右隣の席のはずなのに、なぜか左隣に座っている。

「おかしいですわ! 右隣のはずですのに!」

 悔しくて木に八つ当たりしていたら右手の中指にチクリと痛みが走った。

「ううぅ、痛い……棘がささってしまいましたわ……」

 ツキンツキンと痛む指先から移ったのか胸までズキンズキンと痛む。
 
 木の上から降りたくても自力ではとても降りられない。

「ぐすっ……兄様……」

 このまま誰も助けてくれないかもしれないと思うと不安に襲われポロポロと涙が溢れ出す。 

 太い幹に背中を押し付けてバランスを取りながら膝を抱え込むようにして座る。 

「亜紀子?」

 どれくらいそうしていただろうか、下から聞こえてきた大好きな声に顔を上げれば、普段きちんと整えられた髪を乱した兄様が地面からこちらを見上げて居た。

 うっすらと額に汗が浮かび、息が上がっている事から見て私の事を探してくれたのかもしれない。

「兄様、たすけて」

 まるで王子さまのように助けに来てくれた兄様はこちらへ両手を伸ばしてくる。

「もぅ、どうやってそんなところに上ったんだい? ほら受け止めて上げるから飛び降りておいで」 

「ぐすっ……うん」

 安堵感で溢れる涙を袖口でぬぐい、兄様の腕に飛び込んだ。

「もぅ木に上っては駄目だよ?」   

 兄様に抱きつきながらお説教を聞く。

 うんうんと勢いよく首を上下に振りながら広く逞しくなった兄様の……従兄(じゅうけい)の胸にすがり付く。

 あぁ、兄様の……雄大様の腕の中が一番落ち着く。 

 雄大様が実の兄ではなく、私を産んだあとお母様が亡くなり、お母様を溺愛していたお父様は後妻を娶る事を拒んだ。
  
 九条院家の跡取りとして、父は旧家の西條家に婿養子に入られた実弟の大地様の三男で優秀だが、西條家を継ぐことが出来ない雄大様を九条院家の養子に迎えたらしい。

 ずっと実の兄だと慕っていた雄大様が養子だと知ったあの時のまるで落雷にあったような衝撃が分かるだろうか。

「悪役令嬢は難しいです」
 
 それからもヒロインに嫌がらせを仕掛けて見るものことごとく上手くいかない。

 落とし穴を掘ってみたものの、ヒロインは何事もなく通りすぎてしまい、不審に思って確認しようとして、誤って嵌まってしまった。

 ヒロインは愛らしい容姿と豊満な体つき、そして雄大様に劣らぬ頭脳を有しているらしく、成績順にクラス分けされている事もあり、彼女の周りには学園でも有数の良家の子息が集まってきているらしい。

 こんなに人が集まっては嫌がらせなど出来るはずがない。

 今日は全学生が集まる集会があるためとぼとぼと、敗北感から重い足を引きずって講堂にやって来ると端っこの席へ腰をおろした。
 
 九条院家のご令嬢として常に優雅に誇り高く堂々としなければならないけれど、立派な悪役令嬢になれなかった敗者の私には末席が似合う。

 長い長いながーい学園長の話を聞くうちに眠り込んでいたらしい。

「九条院さん、九条院さんったら!」

 肩を揺すられて目が覚めれば、講堂に集まっていた沢山の生徒の視線が私に突き刺さる。

 ヤバイ、涎垂れてないわよね。

 スカートからハンカチを取り出して口許を押さえて何事もなかったように微笑めば、なぜか周りから残念なものを見るような哀れみの視線を受けた。

「生徒会長、『残念令嬢』に先程会長が仰られていたような愛桜(あいら)嬢への悪質な嫌がらせを行えるとは思えませんが……」

 悪役令嬢だけでなく残念令嬢なる新ジャンルの令嬢もあるらしい。

 愛桜嬢が誰かは知らないが悪質な嫌がらせをするとは酷い人もいるものだ。

「まぁ、悪質な嫌がらせなど良家の子女がすべきではありませんわね」

 うんうんと同意するように頷けば生温い視線を送られた。

 あら、皆様どうかいたしまして?

「亜紀子嬢は女性を階段から突き落とす行為についてどう思われる?」

 階段から突き落とす? 例えば自分が階段から落ちたらと想像してサッと血の気が引いていく。

「どなたか階段から落ちたのですか!? 怪我は!?」

 思わず立ち上がり問い詰める。

「大変、すぐに救急車を手配しなくては!」

 誰が落ちたのかは知らないけれど、階段から落ちれば怖かっただろうし、打ち所が悪ければ亡くなってしまう事もあり得る。

「いや、大丈夫だ。 被害者は幸いかすり傷で済んでいるし、階段から落ちたのも今日の話ではないからとりあえず落ち着いてくれ」
  
 慌ててそう言った生徒会長の言葉に安堵の息を吐く。

「そうだよ亜紀子、落ち着いて」

 いつの間にやら側にやって来たらしい雄大様が私を椅子へと座らせる。

「ほらね、亜紀子が人が怪我をするような嫌がらせを平気で出来るような図太さなんて持ち合わせていないし、それを人に見られずに実行するなんて絶対に無理だ」

「しかし、亜紀子嬢が愛桜嬢へ嫌がらせを仕掛けていたと多数から報告が上がっているのも事実なんだ」

 なんと、私が嫌がらせを仕掛けていたのが愛桜嬢と言うことは、ヒロインの名前は愛桜と言うらしい。

 初めて知ったわ。

「そうだね、水を掛けようとバケツを運んでは転んで自爆してみたり、落とし穴を掘って自分で嵌まってみたりとかことごとく自分に代償が返ってきているけどね」

 その言葉にバッ!っと雄大様の顔を振り返る。

 まさか雄大様にバレていたなんて知らなかったのだ。

「兄様……いつから!?」

 椅子から勢いよく立ち上がるとガタッと音を立てて椅子が背面から倒れた。

「う~ん、悪役令嬢になりたい! って宣言したときから?」

 その言葉に地面に崩れ落ちる。

「六歳の時じゃないですか!」

 恥ずかしい、ものすごく恥ずかしい!

 床をベシベシと叩きつけ恥ずかしさに身悶える。

「ね? 亜紀子は分かりやすいでしょう? 嘘をつくにしても分かりやすくバレバレだから人を欺くなんて芸当は無理だ」

「兄様ぁ」

 私の肩を抱くように立ち上がらせた雄大様に支えられる。

 ううぅ、あまりの恥ずかしさに顔は火照り変な汗まで出てくるよ。

 冤罪に掛けられている筈でシリアスな展開なのに、私の心臓は雄大様から与えられた抱擁に乱れうち狂喜乱舞している。

 み、皆が見ている前で雄大様と密着…… 

 どうやら恥ずかしさと恋愛に対する免疫力が天元突破したようで令嬢にあるまじき鼻血を吹きながら私は意識を失った。