「もぅ、なんで上手くことが運ばないのょ。この私が選ばれない世界なんて、存在する価値がないのに」

 彼女の名は──。決して口に出してはならない。この界隈では暗黙のルールなのだ。もし、真名を口にしてしまったら……この世界から追放という名の火葬が待っている。

 今の彼女……すなわちイニシャルMとでも名付けよう。Mは書籍化という目標に向け、全人生を賭け執筆の真っ只中。書いては燃やしまた新しく書く。そんな日々を送っていた。

「そうだわ。こんなことをしなくても、魔性たる力を使い編集長を虜にすれば……。えへへ、簡単じゃなぃ。さっそく編集長に会わないとねっ」

 思い立ったが吉日。Mの野望が歴史を動かそうとする。今まで誰にもできなかった魅了という力を使って……。

「ふんふんふん〜。あの編集長はちょろいわね。魔性ボイスだけで心が揺れ動いていたわ。まっ、そのおかげで簡単にアポを取れたんだけどっ」

 鼻歌がMの機嫌度をあらわしていた。その歌声で観葉植物は枯れ果て、金魚は水槽でもがき苦しむ。彼女から放たれる瘴気により、部屋の風景は一変してしまった。

 この力こそが彼女が持つ最強の武器。いかなる存在も抗うことができず、意識をMに奪われるのだ。つまり、操り人形として彼女に忠誠を誓う。尽くすことに幸福を感じ、命を賭け彼女を守る。

 それが当たり前だと脳に擦り込まれ……。

「待ち合わせ場所は……確かここね。もぅ、私より先に来ていないとか、ありえないんですけどぉ? ありえないんですけどぉ?」

 開口一番で口にしたのは編集長への文句。作家という立場のはずが、飼い主として躾をしようとしていた。すべては、書籍化のため……それだけのために、彼女は妻子ある編集長をたぶらかそうしたのだ。

「遅れてすまなかった。少し社内でトラブルがあったもので……」
「もぅ、私を待たせるだなんて罪な人よね。ふふふ、で、も、許してあげるわ。こんなことは、アナタにしかしないんだからねっ」

 人の心を鷲掴みする瞳が編集長に向けられる。一瞬でもその瞳を直視しただけで……彼の頭から妻子という文字を失わせる。

 恐ろしいまでに美しいその瞳に魅入られ、編集長はMの操り人形となってしまった。心は彼女の手中にあり、目の前にいるのは……ただの道具となった編集長。思考すら奪い去り彼はMの話に頷く以外しなかった。

 こうして、書籍化へのキップを手に入れたM。彼女が秘める野望は、レールの上を走り始めた。止まるなんてことは決してない。むしろ、さらなる欲望を求めるようになっていく。出版社は今……魔性の毒牙に襲われようとしていた。