私の1日は、いつも緊張から始まる。


「蒼、おはよう」

「おはよう、伊都」


いつものように蒼は私の家の花壇のところに腰掛けていて、こちらに振り返る。

目に掛かりそうな前髪が、やっぱり今日も邪魔そうだ。

蒼は立ち上がり私はその隣に駆け寄る。 そうして、私たちは徒歩15分先にある高校へと登校する。


「ねえ、昨日のドラマ観た?」

「昨日バイトだったから、まだなんだ」

「そっかあ。 うわ〜、言いたくてウズウズする」

「やめてやめて、絶対言わないで!」


そう言って私の方に手をブンブンと振る蒼がおかしくて、私はまた少し意地悪をする。


「でも、学校着いたら絶対その話になるよ。 もう即ネタバレ」

「まじかあ。 今日1日、耳塞いでようかな」

「無理でしょ」


蒼と話しながらの15分はあっという間で、学校が近づく度に私たちの周りには同じ制服を着た生徒ばかりになる。

ー―ああ、もうすぐで終わっちゃう。


「今日、熊井の授業あるね」


ふいに思い出したように言う蒼に、私は思わずギョッとする。


「やば、課題やってない!」


そう言うと「やば、終わったね」と蒼は得意げに笑う。 熊井はうちのクラスの数学担当で、相当なひねくれ者。 

課題を忘れた日には、別の課題を追加させられるのだ。


「蒼終わってるの?!」

「昨日、古文の時に終わらせた」

「うわっ、ズル」


正門を潜って、昇降口に向かう。 すると、その途中で蒼が「あ、」と小さく呟いた。

私は見たくもないのに、反射的に蒼が見ている方向に視線を向けてしまう。

出た。 私の天敵。


「よお」


そんなたったの一言で、天敵は私の幸せな時間を奪う。


「蒼、また宮下と一緒か」


天敵は蒼を私と交互に見て、特別表情も変えずに言う。 


「う、うん」

「またって何よ」


私は口を尖らせて、ついでに睨む。 でも、これくらいは許してほしい。

天敵はまた何か言おうとしたみたいだけれど、後ろからやってきた他の友達に絡まれてそのまま昇降口へと入って行った。

よし、さっさと居なくなっちゃえばいいんだ。


「ほんと、垣根って」


ヤな感じ。 そう言おうとしたけれど、蒼の顔を見上げて私は口を閉じた。


「やっぱり、カッコいいなー……」


蒼は、眩しそうに目を細める。

……そんな顔で、そんな風に、ひとり言みたいに言わないでよ。

私が隣にいること、忘れちゃってるみたいじゃない。


「え~~、蒼やっぱり見る目ないね」


私は悔しくて、わざとそんな風に言う。 これくらいは、許してほしい。


「そ、そうかな」

「そうだよ。 なんで垣根なのよ」


あ、思わず本音が出た。 ついでに、私の地雷踏んだ。 でも、そう思った時にはすでに手遅れ。


「えっと、ほら、垣根は背が高くて、運動もできるし……それにクラス変わったのに、変わらず俺みたいなのにも話し掛けてくれるし……」


しかも、向こうから地雷踏み抜いてきた。 ああ、最悪。 いや、自分で自分の地雷踏んだ時点で既に最悪なんだけど。


「ふーん……」


“俺みたいなのにも”。 その言葉が引っ掛かる。

私たちも昇降口に入り、それぞれ下駄箱で靴を履き替える。 名簿順で並んでいるから、宇野と宮下だと少しだけ距離がある。


「……別に、そんなことないじゃん」


“みたいなの”なんて蒼は自分で言っていたけど。 蒼だって背高いし、運動だって、勉強だって出来るじゃん。

バイトも夜遅くまで頑張って、ものすごく努力家で。

それに優しいしさ、蒼は気付いていないかもしれないけど、蒼のこと気になってる子結構いるんだよ。

なんて全部言えるわけもなく、それでも私の必死の否定は聞こえていなかったのか、蒼は脱いだスニーカーを下駄箱に仕舞った。

その横顔は端正で、整っている。


「……蒼さぁ」


ほんの少しだけ、さっきよりも声を大きくする。


「ん?」


目線だけちらっとこちらに向ける。 スッとまっすぐ伸びたまつ毛がぱちぱちと揺れる。


「たまには体育館行ってみたら? 垣根いるし」

「えっ、なんで」


ほのかに耳が赤くなっている。 私はそれから視線を逸らして、自分のローファーを下駄箱へ仕舞う。


「バスケ、一緒にやってきたらいいじゃん。 蒼、中学までやってたんだし」

「いや……いいよ。 それより、ほら、俺は伊都に課題写させなきゃだから」

「え?」


今度は私が驚いた顔をする。 その顔を見て、蒼はクスッと笑った。


「熊井の授業、2限目だよ。 早く教室行こ」


蒼はそう言うと、階段の方へとスタスタと向かう。

その背中を見て、蒼はやっぱり優し過ぎるんだと思う。

そして、私はどうしても、その優しさに甘えてしまう。

少しでも、蒼が私のことを気に掛けてくれただけで。

あいつよりも私の名前を呼んでくれるだけで、泣きそうになってしまうくらい、私は嬉しい。


だから、これくらいは許してほしい。 


私は1度だけ目を擦って、蒼の後を追いかけた。