あの夜のことを思い出す。


「男と食事するって、黙って行かせる夫がどこにいるんだよ」

來のあの一言は、今でも頭に残っている。


あれは“夫を演じる義務感”だったのか、それとも……

考え出すと、答えが出なくなってしまう。


「案外、ヤキモチだったんじゃない?」

「……ヤキモチ?」

「だって、様子おかしかったよ。わたしにはバレバレだったもん」


そう言ってにこにこと笑う早川先生を見ながら、「だったら嬉しいのに」と思っている自分に気づく。


そのくせ、わたしはまだ“名刺”を持ち歩いていた。


桜丘高校の先生からもらった名刺――

あの夜、來に見られたあれ。

ちゃんと説明したのに、どこか彼の反応は固かった。


「この名刺さえあれば、大丈夫」


そう思える“お守り”だった。


來に提案して、もし拒絶されたら――

このまま一緒にいられないのなら――


新しい場所で、もう一度やり直すための、わたしの“逃げ道”。


財布の奥に滑り込ませた名刺の角が、何度かの出し入れで少し折れていた。

その折れ目を指でなぞりながら、思った。