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放課後、たまたま職員室に立ち寄ったときのことだった。
ちょうど來が教頭と話しているところに出くわした。
「今から酒井さんのご家庭に行ってきます」
「家庭訪問か。確か、ご両親は来るなって言ってたんじゃなかったか?」
「ええ。でも電話ではどうしてもらちが明かなくて。少し様子を見てきます。できれば、本人とも話したいので」
來の声はいつも通り静かだったけれど、その口調にはどこか揺るぎないものがあった。
「わかった。そのまま直帰でいいからな」
「ありがとうございます」
わたしがそのやり取りを目で追っていたら、ふと來と目が合った。
一瞬のことだったけれど、互いの視線が言葉の代わりを担った気がして――
なのに、わたしたちはそれを何ごともなかったかのように逸らした。
「今日の夜は遅くなりそうね、奈那子先生」
別の先生がにこやかに声をかけてくる。
わたしは笑顔を返す。それがこの職員室でのわたしの役割だ。
わたしたちは“仲の良い夫婦”でなければならない。
“今日は直帰です”
“家庭訪問に行きます”
そのどれもが、「私生活を共有する夫婦」であるかのように聞こえる。
でも、わたしたちの関係は、そんな期待のまなざしに答えるものではなかった。



