夫の一番にはなれない



言葉を飲み込むと、なぜか恥ずかしくなってきて、慌てて荷物の中身を見直すふりをする。


「旅行中は、誰にも“先生”って呼ばせないからな」


荷造りがひと段落したあと、來がぽつりとそう言った。


「……え?」

「だって、“先生”って呼ばれてるお前、なんかちょっと遠い気がする」

「それって、どういう……」

「旅行のときくらい、“奈那子”でいてほしい。俺の“奥さん”として」


じわりと頬が熱くなって、言葉が出てこなくなった。


「……わかった。じゃあ、來のことも“先生”って呼ばない」

「よし、約束だ」


指切りでもするかのように、來がわたしの指を軽く取って絡める。

そんな些細な触れ合いが、今のわたしたちにとって、いちばん安心できる証。


「……來」

「ん?」

「こういう普通が、一番幸せなんだなって思う」


そう言うと、來がわたしの頬をそっと包んで、軽くキスを落とした。

やわらかくて、あたたかくて、短いけれど、確かにわたしを安心させてくれるキス。


「おやすみ、奈那子」

「……おやすみ、來」


荷物の準備は、もう終わっていた。

けれど、旅のはじまりはきっと、こうやってお互いを見つめる今、この瞬間から始まっているんだと思った。