夫の一番にはなれない



酒井さんはしばらく黙っていた。

窓の外では、風にそよぐ木の葉の音がわずかに聞こえていた。


「……なんかさ、先生ってずるいよね」

「え?」

「そんなこと言われたら、泣きたくなるじゃん」


小さく笑った酒井さんの目には、光るものがにじんでいた。

でも、涙はこぼさなかった。

強くなったんだな、と思った。


「大丈夫。ゆっくりでいいから」

「……うん」


たった一言のやりとりだったけど、それだけで今日は十分だった。

この“うん”にたどり着くまでの長い道のりを、わたしはずっと見てきた。


あの日、「先生なんて信用できない」と言われたあの冷たい目。

その目が、少しずつ色を変えていく過程を、わたしは何度もかみしめてきた。


「ありがとう」――

そう言いたくなったけれど、言うべき人はわたしじゃない気がして、ぐっと飲み込んだ。


そばにいることの意味を、きっと彼女が一番わかっている。

そして、今この瞬間に必要だったのは、言葉よりも“共有された沈黙”だった。


保健室に、ふたりの穏やかな時間が流れていた。