夫の一番にはなれない



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夜の静かなキッチンで、奈那子は携帯電話を手にしていた。

液晶に表示された「桜丘高校・谷口」の文字が、薄暗い天井灯の下でぼんやりと光っている。

緊張で指先が少しだけ震えていたが、深呼吸をひとつしてから通話ボタンを押した。


「もしもし、谷口先生。夜分にすみません、星坂高校の滝川です」

「こんばんは、滝川先生。いえ、全然。ご連絡ありがとうございます」


相変わらず柔らかい声の谷口先生に、奈那子は胸の中の緊張をひとつ、吐き出す。


「今日は……ご連絡を差し上げたのは、例の件について、ちゃんとお返事をしなきゃと思いまして」

「はい、もちろん。ご無理のない形で全然大丈夫ですからね」


その言葉に、少しだけ心が軽くなる。


「改めて、本当にありがたいお話でした。すごく悩んだんですけど……」


奈那子はふっと目を閉じた。

そして、その目に浮かぶのは、保健室のドアをそっと開けた酒井さんの姿と、「おはようございます」とつぶやいたあの声だった。